短歌研究 2021 9月号 読んだ。

なんかこれまでは歌の話になると論文みたいにかたくなってしまって書く方も読む方もつかれるから、久しぶりの記事、ゆるく出直したい。

短歌研究2021の9月号ぱらぱら読んだ。
新人賞の発表号だから、いろんな人の歌が出てる。歌の話したくて、p120-121の佳作のところを開いて読んだのでここから好きだった歌を引いてみる。

自販機が突き返した千円札に血がついていた 私のではない/越慶次郎

「私のではない」のは血だと思って読んだ。お金っていろんな人が回して使うから折り目とか汚れとかいろいろついてる。で、自販機が突き返した千円札は、この人が入れたわけだからもともとこの人のものだったと思う。なにが言いたいかというと、自販機にいれる前から誰のかわからない血はついていたわけだよね。でも入れる前は気づいてなかった。一旦入れて、吐き出されて、そこで気づく。こういうことってけっこうあるなぁって、そこが共感できた。改札で財布落としたときに、あれ、俺の財布こんな色してたか?みたいな。そういう瞬間。そのもの自体はなにも変わっていないのに、ある手続きによって認識のうえでなんらかの変質が起こる。

平行して同人誌『のど笛』もぱらぱらしてて。そこにあった歌、

ガムを噛みながらトイレへ入ってく 出るとき口の中にあるガム/平出奔

これもなんか似てることが起きてる気がしていて、ガムは同じガムなのに、トイレに入って出るという手続きを挟むことで、ガムへの認識の更新が起こってる感じがする。


遠くからこっそり遊びに来たひとをもてなしている鍋が煮え立つ/城下シロソウスキー

内容としては地味だけれど、全体から空気感が伝わってくる。「もてなしている」のは自分だろうけれど、文の構造上、「鍋」にもかかっていて、鍋がもてなす主体のようにも思われてくる。だから「煮え立つ」のも、もてなす私のこころとなんらかの関わりを持って「煮え立つ」っていそうだなという気がする。これなんかすごい自宅感があるんですよね。もてなす側なんだから自宅なんだろうというのはあるけれど、外部の現象が自分のこころとつながる歌(景情一致とか言われるのかな)って、身体の延長というか、景、つまり外部もある程度身体化されてるものの場合が多いんじゃないか、と思う。暗くても自分の部屋は歩けたり、住んでる町を勘で歩けたりするけど、体があって、服を着てて、そのうえに部屋とか町も、着ていて、それも含めて「私」みたいな話があって、この歌に戻ると、住み慣れてて、鍋もある程度使いなれて身体化されたものになっていて、だからこういう表現が出てくるのかなと思った。それが歌の安心につながってるのかもしれない。

他にも面白い歌はいっぱいあったけど、今回はこんな感じです。

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