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くろたん一首評(2021/9/28)

I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる/橋爪志保 『地上絵』

この歌は、前から書こうかなと思いながらもなかなかうまく捉えきれず、頭のなかでずっとそのままになっていた。この歌の「大丈夫」の説得性には驚かされる。あまりに無根拠であるにも関わらず、「大丈夫だ」と思わせるなにかがある。それがこの歌の魅力のひとつであり、さまざまな人が言及してもいるのだが、その説得性がどこからやってきているのか、理由はずっとわからなかった。

それがふと分かったような気がして、こんなツイートをした。
以下、僕のツイッターより。

橋爪志保さんの、「I am a 大丈夫ゆえ You are a 大丈夫 too」って、なんか、口語が本来持つ個人性の「頼りなさ」がまずあって、だからこそ必死に手探りで(たとえば文語のような)外部にある言葉の説得性に頼ろうとした結果、その瞬間においてこうなってしまった、というような表現に見える。(https://twitter.com/eco_triple/status/1442829700678623233?s=20)

「口語の持つ個人性」とは、口語、つまり現代日常的に使われている話し言葉が、その発話者たったひとりから発せられたものであるということ、とでもいえばいいだろうか。とにかく、日常的に私たちが使用している言葉は、日常的に使用しているがゆえに、発話者本人の言葉として個人に紐付けされてしまう。これが「口語の持つ個人性」であり、「頼りなさ」にもつながっている。そして、この性質は、誰かを励ます、といった場面においては不利に働くものだと思う。

歌に即して言えば、普通に「大丈夫だよ」と言ったところで、「お前個人の意見だろ」と言われ(思われて)それは説得力を失ってしまう。「こっちは大丈夫じゃないんだよ。」と。

この話は文語と比較するとよりわかりやすくなる。

たとえば、道路標識には文語が多いが、これは「口語の持つ個人性」を避けようとした結果と考えることができる。「交差点あり」は、文語だが、たとえばこれが口語で「交差点あります」だったらどうだろうか。自信なさげというか、やはり前者の方が説得力があるような気がする。

「口語の個人性」が、口語が日常的な個人によって使われるがゆえに生じるのなら、普段使わない言葉である文語は、個人と紐づかないことによってある種の公共性を得て、説得力を増す。この話は、以下の記事で過去にまとめたことがある。

文語による説得性は、僕がツイートで言っている「(たとえば文語のような)外部にある言葉の説得性」の一例である。(長年文語を使用し、文語を“内部化”した歌人も多いだろうが、それは僕に言わせれば個人的な肉体化であって、やはり社会にとってはある種の外部性があると思う。)

そろそろ話を今回の歌に戻したい。もう一度引く。

I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる/橋爪志保 『地上絵』

「大丈夫だよ」と、言いたいが、その根拠が「私が大丈夫だから」ではほんとうになんの説得力もない(もっとも、この一首の迫真性から、この主体自身が決して大丈夫ではないことも伝わってくるのだが)。それに気づいた時、人を励ますことの困難さを前にして、(黙り込むのではなく)それでも伝えようともがくことをこの歌は選んでいるのだと思う。その方法として「外部にある言葉の説得性」にすがろうとしているのだが、外部にある言葉が短歌において「文語」なのは、短歌という文脈があってこその話だ。そういう文脈を抜きにして、個人よりも説得力のある、ここにいる私ではない「何者か」の声を、まるで自分も聞き手となってなんとか得ようとするとき、とっさに組み立てられるのはまさに「I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 」というような、一見混乱した文章なのではないだろうか。ここでは文語ではなく、英語という外部性の高い言葉を導入することによって、口語の個人性に抵抗しているのだと考えられる。また、改めてみれば、「ゆえ」は文語的表現であり、これもやはり口語の個人性への抵抗の表れと言えるのではないだろうか。

このように「何者か」の声として「大丈夫」を届けることで、「お前個人の意見だろ」の反論は無効になる。「大丈夫だ」と、信じることが可能になってくる。

では、結句の「地上絵あげる」はなんだろうか。僕個人の感覚ではこの歌ではここはやはり「地上絵」でなければならなかったと思う。

それは、前半において「ここにいる私」という個人ではない「何者か」の声を聞こうとしていることと関係している。「何者か」は、だれでもないのだから「かみさま」みたいなものかもしれない、だからここは「かみさま」から何かを贈らねば、前半における個人性への抵抗が無駄になってしまう。地上絵は、上空、つまりかみさまの視点でしか捉えきれないスケールを持っている。「私でない何者か」になろうとする、もしくはその者の声を聞こうしたとき、眼下に見えたものが「地上絵」だったのではないか。地上絵は、それ自体がなんの役に立ったのか理解されていない、という点でも、「かみさま」からの贈り物としてふさわしいように感じる。

以上が一応、僕がこの記事で指摘したかったことだ。

ただ、最後に、ここまで僕が書いてきたのは、決してこの歌の「良さ」の説明にはなっていない、ということは言っておきたい。

歌集末尾の解説において、宇都宮敦は以下のように述べていた。

「ゆえ」なんて理屈めいたことを提示されても、その理路に説得されるべきところはひとつもないが、この文法的不確かさでしか導出されないふたつの「大丈夫」によって、わたしときみそれぞれを大丈夫そのものにしようとするその思いには打たれる。

「文法的不確かさ」についての理由づけしていったのが、僕のこの記事と言えるだろう。「その思いには打たれる」とあるが、僕はここに深く同意している。なにが言いたいかというと、「外部にある言葉の説得性」に説得されつつも、この歌に読者が心打たれるとすれば、それはその説得性そのものにではなく、むしろもがきながらもなんとか「外部にある言葉の説得性」にすがろうとし、「大丈夫であること」を届けようとしている主体のあり方にこそ、心打たれているのだろう。

最後にいくつか歌集『地上絵』から他の歌を引いて終わりたい。

風のなか本をひらけば花びらとともにさらわれてゆく正誤表

加湿器の横でセックスしたあとに見に行った海 二度うなずいた

ねむたさとさびしさをよりわけたあとねむたさに寝る 春の新月

新年の季語だといいな機関銃 雪の野原できみと撃ちあう

会っているとき会いたさは昼の月 即席のカメラで撮ってみる

改札の前であなたと完全におんなじ人がほほえんでいる

※順番はてきとうです…

出版社のリンクもつけておきます。
ここまで読んでくださった方、もしいれば、ありがとうございました。

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