元気があれば、何でもできる?
多くの人が当たり前に知っていることなのに、自分だけが長く気付かずにいたことに、後になって驚くことがある。たぶん誰しも多少は身に覚えのある経験ではないだろうか。あまり適当な例が思い浮かばないが、例えばアメリカの首都をずっとワシントンではなくニューヨークと勘違いしていたとか。知らずにいたことに後でびっくりする経験は、なにも具体的な情報に限ったことでもない。
30年前に放映されたTVアニメ『21エモン』をDVDで視聴した。放映当時毎週の放送を楽しみにしていたTVアニメのひとつだ。時は2051年、主人公21エモンは宇宙冒険に憧れる少年で、宇宙の旅への準備や道中で、さまざまな騒動を引き起こす。久々に見て感じたのは、実は主人公のエモン自身には宇宙に行きたいという強烈な意欲はあっても、いざというときにそれほど活躍しないことだ。実際に困難な局面を迎えて事態を解決するのは、テレポート能力をもつ相棒のモンガーをはじめ、芋掘りロボットのゴンスケ、そしてエモンに好意を抱くしっかり者のヒロインだったりする。
小説や映画、マンガなどで、エモンのように実際的な問題にはあまり役立たないにも関わらず、なぜか求心力をもって活躍するタイプの主人公は少なくない。私は長く、こんなことが起こるのはフィクションの世界ならではだと考えていた。お話の世界は波乱がなければ楽しめない。だから、正しい判断を下すとは限らない人物を中心に置く。現実なら、周囲にいくらでも優秀なキャラクターが揃っているのに、しょっちゅう判断を間違えて混乱を巻き起こすような人物が物事の中心にいるはずはないと。現実は、正しさや能力によって選ばれた最も妥当な人物が動かしているのだろうと。
「AからBまで、最短距離での移動ルートを知る太郎くんと、途中で散々道を間違えたり寄り道を繰り返しながらB地点に向かう次郎くんがいます。太郎と次郎くんはどちらが早く目的地にたどり着くでしょう。」
素直に考えれば、もちろん答えは太郎くんのはずだが、そうとも限らないのではないか。どれだけ正しい道のりを知っていて寄り道もせずに進んだとしても、仮に次郎くんの移動する速度が太郎くんの100倍なら、太郎くんの知識の正しさは、この速度差の前では無意味だ。
例えば現実の人と人との徒競走なら、いくら足が遅いといっても、100mを走るのにウサイン・ボルトの100倍以上の時間がかかることはない。ただ、目には見えないが、個人間で圧倒的な差がつく人間の要素に、ひとつ心当たりがある。それが、先ほどのエモンが持っていた「意欲」である。過去や現実を問わず偉大な功績を残した人々の足跡を見て感じるのは、偉業を達成できた能力だけではなく、実行に移して継続できたという事実そのものに驚かされることが多い。なぜそこまでのモチベーションを生涯に渡って保つことができたのだろうかと、ときには訝しい気持ちさえおこる。エジソンやスティーブ・ジョブズの逸話を聞いて印象に残ったのは、能力の高さや行為の正しさの是非より、執念ともいえる凄まじいほどの意欲だった。
その方向性が最適とは言えないとしても、強い動機を持つキャラクターが世界を牽引するのはフィクションに限ったことではない(だからこそ、危険な場合も多い)。意欲そのものが貴重だからこそ、強いエネルギーを発する人間の周りには、それだけでも人が集まる。そう実感したのは割と後になってからのことだった。そして遅まきながら、「何かをやりたい」という気持ちをもつこと自体が、実はとても重要なのだと捉えるようになった。
ところで、時事などに対するネット上の匿名意見などを見ていると、意欲の軽視は私個人の特殊な事情ではなく、一定の層には当てはまる今日的な現象かもしれない。
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関係ありませんが、次回以降しばらく、この記事でも触れた『21エモン』絡みの記事投稿が続く見込みです。普段ご覧くださっている方にも興味のない内容になるかと思いますので、気兼ねなくスルーしてください。
(※トップ画像はpixabayより。作成者はPexels様です。)
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