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「読書歴」という言葉に思う

 ツイッター上で読書報告を目的としてアカウントを利用するようになって半年ほどが経った。アカウントの用途から、私がフォローしているアカウントは読書を趣味として、読んだ本や愛好する作家の情報などをツイートし、読書に関連して意見を交わしたり共感を分かち合ったりといった交流を目的とするユーザーが大半を占めている。このツイッターアカウントにおいて、タイムラインや、読書に関連するハッシュタグを検索していてよく目にする言葉のひとつに、「読書歴」というものがある。実は、私がこの言葉を目にしたのは、このツイッターの読書アカウントが初めてである。そして、私はこの言葉に対して違和感を持っている。

 「○○歴」という言葉の使い方がある。この言葉は、「○○」に当たる仕事なり趣味なりを開始してどの程度の年月が経過したかを示す。自身の経歴や趣味を端的に表し、簡単な自己紹介を目的として使用するのに便利な言葉である。そして、この単語に含まれる「○○」の部分には、ある種の暗黙のルールが存在する。それは、「○○」に使われる言葉の行為の一般性が、ある程度の範囲内に収まっていることが条件になるということだ。範囲というのは、上限と下限の両方に対して適用される。つまり、あまりにも「○○」が、そこに暮らす人々(この文章では概ね日本で暮らす人々)にとって当たり前であれば使わないし、逆に、「○○」が稀な事柄であっても、この言葉の利用には適さない。

 「○○歴」が当たり前すぎる例として、たとえば「歩行歴」という言葉は一般に使われない。反対にあまりにも一般的な行為ではない例として「宇宙滞在歴」という言葉も使わない。もちろん、先天的に歩行が困難だったが治療により歩けるようになった方や、宇宙飛行士であればこれらの語彙を使うことは可能だし、実際に使われる可能性はある。ただし、このような用法の場合、そもそもが言葉として違和感を持たれることを前提としており、伝える相手の驚きを想定したうえで用いられる。もしくは、あくまで専門的なコミュニティの中に限って使用されるだろう。

 極端な例を使わず、この"範囲"が示すところを分かりやすく表す使い方の一例しては、「バイク歴」と「自転車歴」が挙げられる。「バイク歴20年」と言われて、"バイク歴"の部分に引っかかりを感じる日本語話者はいないだろう。バイクに乗ること自体は多くの人にとって広く可能性が開かれてはいるが、誰もが乗るというものでもないからだ。一方、仮に会話のなかで「自転車歴35年」と言わたり自己アピールとして記載されていれば、発言または記述した相手に特殊な事情があることを疑うのではないだろうか。なぜなら多くの日本人は自転車に乗ることが可能であり、わざわざ「○○歴」として表現することが無意味なためである(「ロードバイク歴」であれば自然だろうが)。使い得るとすれば、大人になるまで自転車に乗れなかった人が自虐的にそのことを紹介するケースなど、やはり相手が違和感を持つことを前提として使用する場合だろう。

 「読書歴」という言葉を目にして思い出した出来事がある。それは、大学生の頃に受けていた講義で聞いた、「自己紹介で趣味として読書を挙げる人がいるけど本ぐらい誰でも読むだろうに、よほど趣味がないのか」といった「趣味は読書」と公言する学生に対し、教授が揶揄した発言である。私が最近になって「読書歴」という語彙に対して感じたような違和感を、当時の教授は「趣味は読書」という自己アピールに感じたということである。もうひとつ思い出したのは、私が公立小中学校に通っていた頃の同級生たちの様子である。当時は結構なヤンチャとされている同級生たちであっても、「普段、本を読むのか?」といった質問に、はにかみながら、もしくはバツの悪い表情で否定していた記憶がある。つまり、私が知る過去においては、読書は誰もがたしなむ蓋然性のある行為だったということである。

 学生時代の記憶に対応して、ツイッターで「読書歴」という言葉以外にも、もうひとつ、読書に対する意識の変化を大きく感じさせられる投稿があった。それは、高校生らしきユーザーから寄せられていた、「リアルで読書が趣味だと明かすと陰キャ認定されてイジメられるから、堂々と読書の話ができるツイッターは嬉しい」という投稿である。「趣味は読書」の可笑しさを指摘されることに気恥ずかしさを感じた時代から、一部では「趣味は読書」を公言することすらも憚られる時代へ。このような状況が本当に訪れているなら、「読書歴」という言葉が流通するのも当然かもしれない。

 言葉の変化は世相の変化を表す。多くの人が「読書歴」という言葉をためらいなく使用する状況は、読書という行為が多様化する趣味の一ジャンルとして捉えられるようになった事実を象徴している。ただ、これがさらに進行して、先の高校生のツイートが示すような読書が特殊な行為という認識が、本当に当たり前になることには怖れを感じる。そこから知識の寡占による専制的な社会状況までの距離が、そう遠いとは思えないからだ。

(※トップ画像はpixabayより。作成者はPexels様。)

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