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ニュージーランド諦めます。会いたいって人20人だったから


最近ちょっと悔しかったことがあって。

インスタのアンケートでおれに会いたいと答えてくれた人が20人だった。ちょっと悔しかった話。でも思ったよりいなかった印象だけど、まあ多くいればいいとかそういう話ではないし、そんな理由だけで題名のことを言っているわけではない。

何が言いたいか。本題に行こう。



犬になっていたなんて



いま目の前にすごく食べたい物がある。


そこにあるのはニューヨークチーズケーキ。しかしそれは自分のではない。最後の一つは、今机を挟んで反対側にいるあいつが手にした。だから、目の前にあるのだが自分のものではない。

食べたいけど自分のものではないから手が付けられない。こんな時視線をずらして必死に隙をつくって食べようとするが、フォークがあちらサイドにあるため、フォークすらも握れない(フェアじゃない)。

あいつはフォークをもって一口食べる。わざと大口を開けて一口ほおばる。もう一口目に差し掛かったところで、こちらを見つめてきて「いる?」と聞かれた。これはキタ。もちろん口を開けて待つ。しかしそのフォークは、こちらから方向転換してあいつの口の中へ葬られていった。



哀れ。滑稽。
今の自分を見るとひどい始末だったろう。ご満悦なあいつの表情は見たくなかった。


結局こいつからもうもらえないと思ってふてくされていると、情けから一口もらうことができた。おいしかった、が何か申し訳なさや情けなさも感じてしまう。あれだけ食べたくて、欲しかったのに、だ。



犬だな。
この状況を俯瞰した。


飼われている犬になった気分。結局エサにありつけたけども、いつもらえるかなんてこちらにはわからないし、何をくれるかなんてわからない。たまたまありつけたけど、それを自分で手に入れられる力はない。

稀にドッグフードの場所を覚えていて袋をぶち破いていた犬がいた気がしたが、今回の場合だともう一つを買えるわけでもないし(売り切れている)、スターバックスの店員さんを脅したところで彼女らはケーキを作ることはできない。そんなに食べたいなら自分で作ればいいとは言っても、自分であの素晴らしいケーキを再現できるわけがない。




もうあんな思いはしたくない。
いつもらえるかわからないエサを待つだけの犬にはなりたくない。


待たされてる側は待たされてる事実すらも忘れてしまうことがある。

というか
「待つ」ことに絶大な信頼を置きすぎてそこに甘えてしまうこともある。





いつしかそんな滑稽な自分もいたことを、空いた高速道路を進む帰路のバスの中で考えていた。あの頃の自分は高速道路のどこかで捨てた。あんな姿は二度となりたくない。



決めた。新年の抱負



2021年決めたことがある。

それは「今年ニュージーランドには行かない」ということ



2020年ちょうど一年前から決めていたニュージーランドへのワーキングホリデー


半年~1年間ニュージーランドや世界一周に行く予定をした。やれるだけ仕事をして社長にも直訴した。「7月からワーホリに行きます」。しかし、コロナの大流行。それによって空港は閉ざされ、仕事は変わり続け、引っ越しも二回した。モチベーションが保てず、仕事も休んだ。「ワーホリに行くんだ」いつの間にかその想いに固執していた。


人間なにかしらうまくいかないと何かにすがりつくのはこういうことなんだろうな。

自分から人間の弱さと甘さがにじみ出てそれが殻を作った。いつしかその殻は自分を覆うようになり、外の世界からの情報を一切遮断していたのだが、そんな風に閉ざされていたことすらも知らなかった。


どうせワーホリに行く、
いまはワーホリに行くまでの期間、
ワーホリに行くから将来はこうなる、
行けるかわからない状況にも関わらずワーホリということに固執し続けた。待ち続けた。今から逃げ続けた。今を妥協した。今を捨てた。今をワーホリに執着するゾンビのように過ごしていたな。


いま思うとこの待ち続けてる状況は、側から見たら滑稽でひどく情けない姿だったと思う。





実家に帰るとギターを始めている妹のギターを弾かせてもらった。

難しかった。初めは何もできなかった。ギターを弾いている人はあんなにカッコいい。自分も弾けるようになりたい、そう思って、実家に帰っている間でギターを触らない日はなかった。

ここを抑えればDコード、このコードから次はこの指を動かすだけでいい、指が痛い、今のはきれいな音が鳴った。

毎日新しい感覚の連続だった。相変わらずうまく弾くことは難しかったが、弾けば弾くほど新しい発見があった。


こんな感覚は久しぶりだった。


弾けたらいいなと思っていたのも、いつからかこんな風に弾きながら歌えるようになりたいとおごれるようにもなっていた。ギター弾けるようになりたいなと思っていつのまにか楽天市場をあさったりもした。



いつからだろうか。新しいものに触れようとしなくなったのは。
いつからだろうか。何かを始めようとしなくなったのは。
いつからだろうか。今できることを探さなくなったのは。

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なんでケーキを食べてうれしいより申し訳ないが勝ったのか


ケーキの話に戻る。

諦めていたにもかかわらず、ケーキが食べれた時にそれほどうれしいと思わなかったのはなぜだろうか。



明日から行けるっちゃいけるよとニュージーランドの空港が開いて、入国できるとする。でも入国したとてどうだ。

思い描いていたニュージーランドライフは送れるだろうか。

どこに行っても検査。どこで働こうにも仕事が止まっているかもしれない。現地のゲストハウスで働いたとしても、世界中から旅人は集まってくるだろうか。



ああそういうことか。

情けや惰性で中途半端にそこに踏み込んだとしても、自分がうまくかみ砕いて腹落ちしていないと、自分自身納得して過ごすことはできないんじゃないか。



逆に行かないことに納得させようとするならいくらでも挙がる。

ニュージーランドで何を学びたいか、何を感じたいかもっと深堀りできるんじゃないか。なぜ英語を学ぶ必要があるのか、今じゃないとだめなのか。

とか、行く理由がまだ曖昧であることに、まだ行けないなら深堀りをするべきだと言い聞かせる。



ただ忠実に「待て」に従い続けているのか。座ってよだれを垂らしながら待っているだけでいいのか。


行けないせいで、自分の人生のプランが遅れる心配はある。
行けないせいで、まだ仕事を続けなくちゃいけないのはある。
行けないせいで、、、。

いつもこればかり考えていた。



でもそれは、いつか行けるからという今を捨てた“甘え”の「待つ」行為をしていただけだった。



正直こんなおもしろみもない文章だって書きたくない。本当はもっと日常の一瞬を切り取っても、空間を彩れるような広がりのある文章が書きたい。(それもおもしろいかはさておき)

もっとある。

ブログだって書き続けたいし、少ない給料ならば自分で稼げるスキルぐらい身に着けたい。もっと賢い資産形成をしたい。趣味にだってもっと没頭して、キャンプだって毎月行きたいし、もっと味のある感動させられるフィルムカメラを撮りたい。彼女だって作って大切にしながら過ごしたい。そのためにどうするか、何が必要か。

動け。行動するしかない。



今に目を向けてみたらほかにもこんなにやりたいことが見つかった。やらなければならない事もたくさんある。もうただ「待つ」のは辞めよう。焦らされても期待通りの結果にならない。


だから一旦諦める。今年ニュージーランドに行くことを諦める。もっとやれることがあった。もっと他にもやりたいことがあった。



初日の出の陽によって殻が外れて、ようやく外の世界が見れた。殻の中でくそみたいにぬくぬく甘えて過ごしていた昨年を再び過ごさないように、新年の抱負としてこのnoteを残そう。誰のためにもならないnoteだけど書かないとだめなnoteを。


今年は何作書いていこうか。
そろそろ京都タワーも見えてきた新幹線の中でこの思いに落ち着いた。
2021年はまた自分の可能性を広げる期間にしよう。


これからどんなアクションをしていこうか。
もっとおもろい人になって会ってみたいと思わせよ。
もっと身近な人に刺激を与えられる人になろう。
1年後にはもっと面白いと思わせられる人になってるので期待していてください。

来年は20人より増えてるといいな。

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