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3万円の服を買ってくれた男と渋々付き合った話【前編】

「タダより怖いものはない」

誰もが聞いたことがあって、きっと一度は身を持って経験したことがある教訓だろう。

私もこれまでの人生でたびたび”タダより怖いものはない”経験をしてきた。

学生時代に駅前で勧誘された無料脱毛体験にほいほいとついて行き、クリニックにて院長を名乗る男に個室に閉じ込められて、50万円程の高額コースを延々と勧誘されて1時間部屋から出られなかったこともあった。

職場の同僚と無料の食べ飲み放題目当てで行った相席居酒屋で中年男性3人組と相席になり、”口から吐き出した梅干しの種”と見紛う物体が入った袋を3つ挨拶代わりに渡されたのち、延々とつまらないおじトークに付き合ったこともあった。
(梅干しの種もどきは別の居酒屋でもらったおつまみ味噌だったらしいのだが、見た目も相まって気持ち悪くて食べられたものではなかったので捨てた。味噌には申し訳ないことをした。)

「タダって、時によっては出費より痛手になるなぁ」
と学んできたはずだった。

しかしここまで痛い思いをしてもなお学習しないのが私だ、これらを上回る”タダより怖いものはない”を具現化したような男と付き合ってしまったのだ。



2年前の今頃、事務職として3年余り勤めた会社を退職した。
なんだかもういろいろと嫌になりいち早くその会社を辞めたかった私は、転職先を見つける前に退職願を提出した。

しかし、スキル・経験乏しいアラサー女にとって、転職は一筋縄ではいくものではなかった。
一向に納得のいく企業とご縁が結ばれないまま、刻一刻と退職日が迫っていた。

仕事がない、お金もない、彼氏もいない。
三十路直前独身無職予定女、とにかくお先真っ暗だったのだ。

ああ、どうにかして恒久的な生活の安定を手に入れたい…
バリキャリとは無縁の私は、定年まで安定性の高い仕事を見つけることがもはや不可能に感じていた。

では、どうしたら安定を得られるのか。
浅ましい私がたどり着いた打開策は、

”玉の輿に乗る”

だった。

そうとなれば、直近2年間だらだらと独り身で過ごしてきたが、ようやく恋人探しに本腰を入れる時が来た。
コロナの流行で合コンや街コンがなかなか開催されない中私が選んだのは、マッチングアプリだった。

マッチングアプリというのは、希望の異性の条件(居住地、年齢、年収など)で絞込検索をしたり、相手から”いいね”をもらうことで異性を見つけることができる。
使い始めてまもなく、さっそく複数の男性から”いいね”が届いていた。
そのうち一人のプロフィールをのぞいてみる。

Mさん(私の一歳上)
居住地…私の家から電車で1時間半程
職業…コンサルタント
年収…800~1000万円

他にも休日の過ごし方や理想の結婚像など書いていた気もするが、年収と職業をチェックして思考停止で”いいね”を返した。
このMさんこそ、私が引いてしまった人生最悪のジョーカーなのである──
いや、ジョーカーというと何だかかっこよすぎるので、”ババ”と訂正する。

そんなババとマッチング後、メッセージを重ねて実際に会うことになった。
待ち合わせ場所に現れたのは、プロフィール写真より随分恰幅が良く、ピチピチの白ポロシャツとパツパツの黒スラックスに革靴を履いた大男だった。
風貌だけで判断すると、コンサルタントというより体育教師の方がしっくり来る。
(もっとも大半の体育教師の方がよほどお洒落だろうが。)

塩顔細身インテリ系男子が好みの私は、目の前に現れたソース顔太身体育会系男に内心がっかりした。

寿司屋でランチからのスタバでお茶と無難なデートコースをこなしたが、まったく楽しさを見いだせなかった。

初対面の印象を総括すると、
・見た目は全然好きになれそうにない
・中身はさらに好きになれそうにない

(今のところ悪い人ではなさそうだが、どうしても恋愛対象として見られない。
話し方や語彙、時折放つ冗談のつまらなさが生理的に厳しかった。)

といった感じだ。
上から目線な言い方をすると、なし寄りのあり。
“あり”というのは、彼の年収を加味したうえでの判定だ。

「アプリ以外の連絡先を教えてもらってもいいですか?」
楽しくなさすぎて早々に解散しようとした私に対して、彼が聞いてきた。

「嫌です。それでは失礼します」
と拒絶する勇気を持ち合わせていなかった私は、仕方がなく連絡先の交換を受け入れた。
そして次に会う約束も断ることができず、彼のペースにのまれるがまま2回目のデートの予定を入れてしまった。


2回目のデートの日、気乗りしないまま待ち合わせ場所へ向かう途中、友人夫婦に遭遇した。
これから行きつけの服屋に向かうらしい。
「いいなぁ、私もデートよりそっちについて行きたいよう」
と愚痴をこぼしながら、二人と別れてババの元へと向かった。

「おはよう!今日はどこに行く?俺はどこでも!」
「行きつけの服屋で冬服を見てもいいですか?」

こうして容易く友人と合流することに成功した。
もちろん友人には事前に連絡しておき、店での鉢合わせは偶然を装ってもらうようお願いしておいた。
ババと二人きりより友人がいた方が楽しいという心境もあったし、友人と喋ってもらうことでババの社交性を見ておきたいという狙いもあった。

店内で服を物色していると、一着のセーターが目に入った。
職人の手編みでつくられた淡いピンクのセーターに、ひとめぼれした。

なんて可愛いセーターでしょう…!
おそるおそる手に取った値札には、

¥33,000

と刻まれていた。
近々ニートになる予定の分際で買うには、いささか敷居の高い価格だ。

「時機が悪かった、仕方がないさ」
と手放そうとしたが、すかさず店員さんに試着を促された。
続いて、ババや友人たちも勧めてくる。
ここまで勧められて断るわけにもいかなかったので、「着るだけ着るだけ」と己に言い聞かせながら試着室に入った。

するとまぁ、柔らかでふわふわとした毛糸のセーターが我ながらお似合いで、鏡を覗いてはますます惚れ込んだ。
浮かれ気味の私に、「似合うよ買っちゃいなよ」と周りの人間も囃し立てる。

しかし忘れてはならない。
私は今、無職直前・独身・将来不透明な崖っぷちアラサーなのだ。
いかに欲しい物でも、贅沢品に貴重な貯金を費やすわけにはいかない。
会社員時代のように羽振り良くお買い上げしたい気持ちを殺して、試着室に戻りセーターを脱いだ。

試着室を出て、「保留にします…」と皆の期待を裏切りセーターと戻そうとした、その時だった。

「買ったらいいじゃない」

ババが財布からクレジットカードを取り出し、レジのキャッシュトレーに置いた。
私も店員さんも友人たちも、その場にいた全員が軽い冗談と受け取った。
「おっ、気前がいいですね!」なんて総出で笑ってつっこんだ。

ところが、ババはカードを出したまま冗談を止めようとしなかった。
「そんな、いいですよ!」とババをレジから退かせた。
リアクションに困る茶番だったな…と思ったのも束の間、まだ終わらなかった。
その後もババがカードをレジに差し出す度に私が引き止めるという妙なやり取りが何回も続いた。

これ以上この店にいても不毛なやり取りで店員さんを困らせるだけだと悟った私は、そろそろお茶をしに行きましょうと店を出た。

芝生が広がる公園でテイクアウトしたドリンクを片手に、しばし雑談をした。
「俺はあなたといて楽しいし、あなたのことを良いなと思ってるよ」と言われた。

好意を口にされたことにより輪郭が浮かび上がってくる心情。
やっぱりなんだかしっくり来ず、どうしても恋愛感情に至れない。

「はは、光栄です」と愛想笑いを含ませた返事をしながら、周辺にはびこる若いカップルや散歩している犬なんかを眺めて、居心地の悪さから気を紛らわした。

そうやってやり過ごしてやっと夕方になった頃、服屋にいた友人からLINEが来た。
「試着室にリップクリーム忘れてない?」

しまった。とんだうっかりだ。
もう何年も愛用しているリップクリームは、私にとって1日たりとも手放せない必需品。
必ず今日中に取りにいかないと。

「リップクリームを服屋に忘れてきたので、取りに帰っていいですか…」
ババと解散する良い口実ができたと思ったが、期待と裏腹にババは当然のように服屋までついてきた。

「おかえりなさい!」と先刻の店員さんが出迎えてくれた。
無事リップクリームを回収した私は、後ろ髪を引かれるようにラックに戻されたセーターをちらっと見た。
「やっぱり欲しいんでしょう」とババにも店員さんにも目線の先を見透かされる。
そして、もう何回繰り返しただろう、再びババがレジにカードを差し出した。
「このセーターを着て、紅葉デートに行きましょう!」

まさかこの男、本気でセーターを買ってくれるつもりなのか…!?
ここに来て冗談がいよいよ現実味を帯びてきた。
付き合ってもいない女に3万円も貢ぐなんて、完全に偏見だが東京港区の人間だけだと思い込んでいた。
しかし、これはもう買ってもらっていいのか…??

繰り返されるババからの申し出に、ついに降伏した。
「ありがとうございます、紅葉を観に行きましょう」

ババはカードを切り、33,000円のお支払を請け負ってくれた。

3万円のセーターを買ってもらった私の率直な心境は、

「可愛い一張羅を無料で手に入れられてラッキー」
と同時に
「なんだか後戻りができなくなってしまったな」
と胸騒ぎがした。

のちにこの胸騒ぎをはるかに超える大きな災いをもたらすことになることまでは、予想していなかったが。


2回のデートを終えてなお、ババへの恋愛感情は湧いてこなかった。
しかし3万円のプレゼントをもらった以上、3回目のデートの申し入れを断るわけにはいかなかった。

そうして気乗りしないまま会った夜、飲み屋でおもむろにババが自身の年収を語りだした。

「俺の年収は900万円くらいあるんだよね。だから収入はばっちりなんだ」

恐らく高年収アピールで私の心を射止めたかったのだと思う。
正常時の私であれば「うわ、自分から年収アピする男まじ無理…」と引くところなのだが、何しろその当時は玉の輿に目がくらんでいたので、ババに対する紛い物の好感度が爆上がりした。

このイケてない口説き文句がまんまと刺さってしまったこと。
そして何より、3万円のセーターを奢ってもらった以上とてもじゃないけど拒絶できなかったこと。

別れ際に駅の改札口でババが放った
「結婚を前提に付き合ってください」
の申し出を断ることができず、ただただ受け入れた。

奇しくもちょうど無職になった日の夜のこと。
玉の輿に一歩前進したことに対する希望と、恋人ができた直後にも関わらず高揚感も無くぬるい心情を電車に乗せて帰路についた。


付き合ってからは週に一度、私が片道1時間半かけて彼の家まで訪ねていた。
特別好きでもない男のために移動するにはなかなか足が重い距離だったが、日々激務の正社員と週4アルバイトに転身した人間だと、こちらが赴かざるを得なかったのだ。

ババは私といる間も、毎回数時間PCと向き合ったり一人でTVゲームをしていた。
わざわざお金と時間をかけて来てあげたというのになんだこいつ…という不満は抱えつつも、特段構ってほしい気持ちは湧かなかったので不満を声に出すことなく、一人で近隣のお店を開拓するなどして互いにソロ活を充実させていた。

ごはんは外食で済ませていたのだが、最初の頃は「バイト生活だと大変でしょ」と、財布から飲食代を差し出す私を制止してごちそうしてくれることが多かった。
しかし時が経つにつれ、全国展開チェーン店で割り勘(私の方がはるかに食べた量が少ないのに!)することが度々起こり、
「片道1時間半と交通費千円近くかけて、なんで好きでもない男とどこにでもあるチェーン店で割り勘せなあかんねん」
と次第に不満が溜まっていった。

それでも不思議と彼と別れようとしなかったのは、とにかく”玉の輿に乗れる”という安堵感にすっかり正常な判断力が鈍っていたからだ。


そんななか最初の爆弾が投下されたのは、付き合って1か月半の時だった。
近々誕生日を迎える私に、ババは誕生日に行きたいディナーのお店をLINEで訪ねてくれた。
誕生日当日は平日だったので忙しい彼を気遣い、ババ宅の近所で3~6000円程度のコース料理のお店をいくつか挙げた。

ババは「了解、俺も他のお店探してみるね!」と述べた後

「前に『一緒にいてくれるだけでいい』って言ってたから、プレゼントは気持ちでいいよね?笑

と聞いてきた。

衝撃だった。
確かに少し前に「誕生日、平日やしとりあえず一緒に過ごせたらいいから」とはこぼした気はするが、そんなきれいごとを真に受ける大人がいるのか。

付き合って日が浅い女へのプレゼント出費に抵抗がある気持ちは分からなくもない。
しかしあれだけ「俺は高年収だ」とか「結婚前提で付き合いたい」とかほざいていたくせに、愛やプライドはないのか。

さすがに誕生日には記念に残る物が欲しいなぁ…と思った私は
「これが欲しいなぁ」と、以前から気になっていた7000円台の髪飾りの通販ページのURLを送った。

するとなんということだろう、先ほどの衝撃を上回る発言が返って来た。

「正直前に買ったセーターが早めのクリスマスプレゼントのつもりだったし、普段ごはん奢ってるし、正直がめついと思った

「がめつい」

“恋人”という大切であるはずの相手に、こんな痛烈な言葉を浴びせる男が世の中には存在したのか。
たった7000円程度のプレゼントを誕生日にねだられただけで、好きな女相手にここまでケチるなんて、なんと器の小さい男なのだ。

セーターも外食も、払うと申し出たのはいつだってあんただったでしょうが。
誕生日という特別な日にこんな酷いこと言われるくらいなら、力尽くでも全ての申し出を断っていたに決まっとろうが。
あとついでに言わせてもらうが、「早めのクリスマスプレゼント」とは何のことだ?
今は私の誕生日の話をしているのに、何勝手に先のクリスマスの話を持ち込んできとるんだ?
あのセーターはあんたが「一緒に紅葉デートに行こう」と贈りつけてきた代物であって、クリスマスプレゼントとは一言も言っていなかったが?

いろいろ突っ込みたい気持ちを殺して、
「がめついと思わせてごめん」
と返信して、スマホをベッドに放り投げて倒れこむように就寝した。

翌日の夜、少しは頭を冷やしたのか、ババから
「言いすぎました、ごめんなさい」
と返信が来た。

昨夜の一件で一気に彼と向き合う気力が消え失せていたので、
「ちょっといろいろ考えたいから、また後日連絡するね」
とだけ返信した。

“ちょっといろいろ”というのは無論、彼との交際を継続するかどうかだ。

私は、”高年収”かつ”私のことを大切にしてくれる”男と付き合いたくて、ババを受け入れた。
しかし化けの皮が外れて、私への出費を渋り酷い言葉で罵ってくる男であることが判明した今、愛してもいないババと付き合う意味は全くないことは明白だった。

今となっては信じられないが、それでも当時の私は彼と別れるか悩んでいた。
恋愛対象として見ることが難しい相手ではあるものの短い交際期間の中で情は湧いていたし、(いささか信じがたい理由だろうが)彼の家の近所に開拓したいお店がまだまだたくさんあったので、無料で泊まれる宿を失うことが割と心惜しかったのだ。

そんな風に
「もはや今後も好きになれそうにないし、玉の輿どころか結婚したらモラハラを受けそうだな」と
「でも情はあるし今後新しい彼氏ができる気がしないし、宿も失いたくない…」
のせめぎあいに1週間程葛藤したのち、
理性が勝った私は、電話口で彼に別れを告げた。

電話越しの彼からは相当落胆していた様子が伺えたので、別れた直後は少し情が沸いてしまったが、それ以上に彼と別れられたとこによる解放感を日常に取り戻しつつあった。

これからババの更なるおぞましい本性を目の当たりにする羽目になるとは、当時の私は考えてもいなかった。


次回、「別れた彼氏にプレゼントを返せと要求された話【後編】」に続く


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