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マスク戦争論−マスクする人しない人。それって自由じゃないの?全体主義的風潮の中で議論する思考力

こんにちは。
私は立場を明らかにすると、私はマスクを外したい側です。
マスク着用の有無で分断が生まれている現状から、
選択することと自由について考えたのでつらつらと書きたいと思います。

前提として今日現在(2022年7月27日現在)の厚生労働省のジョームページにはこのような記載がありました。

<屋外>
○マスク着用を推奨
 他者と身体的距離(2m以上を目安)が確保できない中で会話を行う場合のみです。
○それ以外の場面については、マスクの着用の必要はありません(例:公園での散歩やランニング、サイクリング/徒歩や自転車での通勤、屋外で人とすれ違う場面)。
 特に夏場については、熱中症予防の観点から、屋外でマスクの必要のない場面では、マスクを外すことを推奨します。
<屋内>
○マスク着用の必要がない
 他者と身体的距離が確保できて会話をほとんど行わない場合(例:距離を確保して行う図書館での読書、芸術鑑賞)のみ。
○それ以外の場面については、マスクの着用を推奨します。

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kansentaisaku_00001.html

国家機関の伝える範囲では「推奨」となっています。

あなたがもし街なかでオジサマに「マスクしなさいよ」と言われたら
それはその方の個人的な主張に基づいてマスクをしてほしいから
行っているということになります。
自由意志に基づいて発言することはこの国では自由です。(言論の自由)

もちろん、それに反論するなり、
マスクをしないという選択の自由もあなたにあります。
まわりがマスクの人ばかりだと、
この時点で「なんかマスクしないとヤバそうだ」となって
渋々マスクをする。
このときあなたは自由が侵害されたような気になるでしょう。

マスクを強制したがる人は悪い意味で日本人的な感じがします。
戦時中の全体主義のような、”マスク”という象徴にこだわり、
みんなと同じじゃないならダメ!!という圧をかけてきているように思います。

海外からみたらマスクを未だに行儀正しく全員がつけているのは驚かれます。海外にはもともとマスク文化がなく、日本人がコロナ前からマスクをしているのを不思議に思っていたほどです。
マスクを外している人が大勢になれば、「マスクまだしてるの?」になるのでしょう。

マスクの有効性に疑義がある中で、
そんなことはどうでも良くて、「マスクをしている姿」に
意味を見出しているのでしょう。

全体主義、みんなと同じじゃないとダメ。
ワクチンの問題もそうです。

本当に、ワクチンを打って重症化しないなら(ご存知の通り感染しないためのワクチンではない)
打たない人が重症化しても、
本人がそれでいいと選択していることを尊重すべきです。

反対にワクチンの弊害が大きくても、
それで何があっても構わないという人に
打つなんておかしいというのも違うでしょう。

私、個人的にはワクチン接種には反対ですので、
家族、恋人、友人など、親しい人には健康を害さないで
命を守るための選択をしてほしいと考えているので、
意見が衝突してでもエビデンスを
伝えるようにしています。

先入観というか、全体主義的に
「絶対そう」という感覚は洗脳に近いものを感じます
「医師は正しい、政府がすすめている」これをほどくのは
大変に苦労しますが、だいじなひとには
わかってほしいと思ってしまいます。

この国は自由なようで、不自由な監視社会のように思います。
それが政治的にも経済的にも民衆の支配に利用される面は
歴史的にも否めない事実です。

なぜ今のこのときには
「自分は、大丈夫」だと言えるのでしょうか。
最近流行りの自己肯定感を気にする前に、
まず人間的に自立する必要があると思っています。

過信、盲信は自信とは程遠いことです。
論理的な説明ができないということは、不勉強であることです。

政治不信のなか憲法改正議論が盛んになっていく中、



「みんなが戦争をしたがっているから」



「みんながこわがっているから」



「おまえも戦争に賛成しろ」



かつての敗戦から何も学ばない、
そんなひとたちではないと信じていたいですが。

スマホを触る手の指先ばかりが饒舌に、
先走って人を傷つけているように思います。
人を殴って傷つけるのも手だったります。

話し合うための口、意見を交わすための耳。
口も耳もついているなら、丁寧に使っていきたいものです。
距離を取りながら話せるのは平和的でいいですね。


斑鳩入鹿

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