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月夜の戯言 意志や想い、変化すること、時ついて

静止画を撮影したときに思う。
この画像のあとどんな変化が起こるのか。

例えばこの写真だけをみたときには
花が咲いている、
と認識する。

この花は次の瞬間どうなるか?
と問われると未来の姿を
想像するだろう。
1分後、
風に吹かれているかもしれないし
突然の雨に打たれているかもしれない

5分後には誰かに踏まれてるかもしれない

1ヶ月後には枯れてるかも。

そんなふうに想像力を発揮することができる。


動画で作成すると
時の経過を表現しやすい。

科学の世界で、この世界は静止画の連続だと
捉える考え方を聞いたことがある。

また、運命は予定調和的に用意されているとか
そういう捉え方を聞く。

まったく科学的な視点ではないけれど
個人的には
時間は主観的な形で存在している気がしている。

今これを書いている僕の時間軸は
このあと睡眠をとる"'経過"があり

拙い文章を読んでくださる方の
これを読む時は少しばかり(僕にとって)未来の時間だと思う。

観測者ということばが適切かわからないけど
経過を認識できる主体ごとに時間は存在している気がする。

主体となるそれぞれが自由に行動するがゆえに
それらはうねりとなっており重なっていく。

全体的な経過、主体となるひとつひとつをミクロ的な見方をすれば全体的な経過はマクロ的。

時間について真実はわからない。でもそう捉えてる感覚が大事だと思って書いている。


運命ということばは素敵な意味で使われる一方で
変えがたいものだと認識することがある。

しかしながら、
時間がそれぞれの個としての"経過"に過ぎないと思ったら、最初のたんぽぽの静止画の次の経過は、自分の心次第で変えていけるような気がする。

風に打たれるという外的な変化があっても
人は風防を作ってあげられるし
雨に打たれるなら
傘をさしてあげられる。


経過にたいしての反応。
それはちっぽけな僕らにも
小さな変化として
意志や想いの
一挙手一投足で変えていけるのだと思う。


蝶の小さな羽ばたきが
遠く離れた国にトルネードを引き起こすように


斑鳩入鹿

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