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書評:『イスラーム文化』井筒俊彦

①紹介

東洋哲学の碩学で、イスラム教の聖典『コーラン』を最初に日本語に訳した井筒俊彦の『イスラーム文化-その根柢にあるもの』(岩波文庫、1991年)を紹介します。(あれ、イスラム?イスラーム?ここの違いは後で調べましょう)彼は研究のためにおよそ30ヶ国語を操ったとか。イスラームをイスラームたらしめているものは何か?アッラーと契約を結んだムスリムの知られざる生き方に迫ります。

②考察

・「誰でもその気になりさえすればイスラーム共同体の一員になれるのです」
→中東の砂漠と商業が生んだ宗教・イスラームは外交的ゆえに、基本的に誰でもウェルカムのスタンスを取る。私がキリスト教会でクリスチャンになる前に経験した信仰告白や受洗、あるいはそれらに類似する儀式的なものはイスラーム教にもあるのだろうか。誰でもムスリムになれるのは、クリスチャンになることに比べて条件がさほど厳しくなく、手続きが複雑ではないからか。そんな気がする。

・「人間は原罪によって本質的に汚されてはいない。(略)それは偶然的な汚れであって、本質的な汚れではない。人間の力で直していけるものである」
→キリスト教と違い、イスラーム教には原罪の概念がない。アルカイダやタリバン、そしてハマスなどのいわゆる「過激派」が文字どおり過激な行動に出る理由はもしかしたらここにあるのではないか。もちろん、この箇所を見ただけでそう判断するのは早計だが。

・「相対立する三つのエネルギーのあいだに醸し出される内的緊張を含んだダイナミックで多層的な文化、それがイスラーム文化なのだ」
「三つ」とは、シャリーア(イスラーム法)重視のスンニー派、内面探求型のシーア派、そしてスーフィズムを指す。プロテスタントが多くの教派を抱えているのに近い。ちなみに、スンニー派は四大法学派を抱えており、元外交官で作家の佐藤優氏によると、最近世間を騒がせているイスラーム過激派のほとんどはそのうちの一つに所属しているとのこと。

③総合

一人のクリスチャンとしてイスラーム教のことについて触れるのは避けられないことだった。それはキリスト教と同じ神を信じる一神教でありながら、教義の内容はキリスト教のそれとはずいぶん異なっており、対話の難しさを改めて痛感した。とりわけ原罪の概念がないことは注目に値する。敵と思い込む必要は全くないが、教義、そしてムスリムの信仰観を理解するのにはかなり時間がかかるだろう。

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