見出し画像

物心がついてから初めて触れた「人の死」

タイトルの通りのことが先日起きました。
ある意味非日常的な出来事だから記録しておきたくなったのと、自分の心の整理のために筆を取りました。
決して楽しい文章では無いので、無理に読まなくても大丈夫です。


その日は突然来た

9月21日の朝8時頃、祖母が自宅で息を引き取った。老衰とのことだ。
私はこの日に限って、15時近くまで爆睡してしまい、起きた瞬間LINEの通知が大量に来ていて「何事か?」と思ったら、受け入れ難い事実が綴られた母からのLINEが目に入った。

お通夜は22日、葬儀は23日に行われるとのことで、私は22日の昼に祖母のいる名古屋へ向かうことにした。
21日の私といえば、16時半から22時までバイト(塾講師)のシフトに入っていたので、平静を装い生徒に授業をしていた。
祖母とは物理的に離れていたから、この時はまだ祖母の死の実感がわいていなかった。


名古屋に到着〜お通夜まで

新幹線に乗って移動している間もまだ実感がわかなかったけど、これから嫌でも「人の死」に直面しなくてはならないことがとにかく不安だった。

会場に到着して、まず先に祖母の遺体と対面した。
目を瞑ったまま動かないので、本当に亡くなってしまったことをこの時ようやく理解する。「これから」がもうないんだな、もう会えないんだなと思うと涙が止まらなかった。

少し時間が経ってから、湯灌とお着替えとお化粧へ。祖母はお風呂が好きだったので、喜んでいたと思う。
お化粧は、施設の人から普段どのような雰囲気のメイクをされていたか聞き取りがあったので、ナチュラルメイクで、眉毛をきれいに描いて、血色良くしてほしいと母と叔母がリクエストしていた。
化粧が終わり、祖母のお顔を見た。とても綺麗に仕上げていただけて良かった。コーラルのリップで少し若返って見えた。
あと、祖母のお顔を改めて見て、お肌白くてシワも少なくてとても綺麗で美人だなと思った。私もこの遺伝子継いでたらいいな。

お通夜の打ち合わせで、お寺からお坊さんが来たのだけど、茶髪ロン毛で正直びびった。
でも、とても親切で礼儀正しく、お経を読む声はあの独特なお坊さんのそれだったので、人を見た目で判断してはいけないな、と自戒した。

戒名はどうするかもこの時に話して、祖母の生前の人柄や好きなものを聞かれて、それにまつわる漢字を使うとのことだった。
祖母は自分のことより人のために動く人で、お花が好きと伝えた。
その結果、慈愛の「慈」、仏様のお花の「蓮」、それと生前の名前のある一文字が使われた。素敵な名前をいただけてよかったね。

しばらくしたら、親族の方々が集まってきた。
式が始まるまでご歓談タイムということで。
知らない人らの中にぶち込まれる人見知りコミュ障の私…。もちろん会話の輪に入れずぼっち。たまに話しかけられても、息子娘や孫の自慢話を聞かされたり、どうせ私なんかに1ミリも興味ないくせに次から次へと面接の如く質問責めに遭う。地獄かな?
なんか祖母の末妹のお孫さんは慶應義塾大学でA田○菜さんと同じ学部学科らしい。すごいね。でもお友達のガードがすごくて、興味本位で近付いて来ようとする人は全然話しかけられないらしい。守られているね、さすがです。

いざ、お通夜。
日常生活においても非常識な私は、お葬式のマナーをもちろん知らず、戸惑うことばかりだった。
焼香の仕方がよくわからなくて(どのタイミングで礼をするのか)、必死に喪主の姿を見て覚えて、いざ自分のターンになると非常にギクシャクしたと思う。
いい年した大人なので、各種マナーは身につけておくべきですね…。

初日の行程が全て終わり、親族が寝泊まりする部屋で過ごす。
良いホテル並みにめちゃくちゃきれい。リビング広っ。でかいテレビと広い家にありがちなL字の立派なソファー。お風呂も広っ。しかもジャグジー付き!新築の一軒家にありそう。


葬儀、出棺、集骨まで

二日目は11時半から開始だったので、朝は意外と余裕があった。
また、早めに集まった親族とのご歓談タイムがあった。低血圧だし早起きしたからとにかく眠くて、愛想笑いや聞いているフリすらせずにずっと虚無ってたと思う。(社会不適合者)

葬儀で焼香をあげたりお経が読み終わってからは出棺準備。
祖母は花が好きだから、たくさんの花を詰めた。きれいに化粧してもらって、たくさんの花に囲まれて、喜んでくれてたらいいな。
顔を見られるのはこれで本当に最後とのことで、蓋を閉める最後まで安らかに眠る顔を目に焼き付けた。

いよいよ火葬場へ。棺桶に入った祖母と本当に最後の別れ。祖母の顔を一生懸命思い出して記憶に刻もうと反芻した。

火葬場は、棺桶が1つ入るくらいのサイズの窯?みたいなものが何部屋もあって、窯の扉が開くととても熱かった。この中に入って焼かれて本当にいなくなってしまうのかと思うと心苦しかった。たくさん泣いた。

集骨まで、1時間半ほどの休憩・食事。
食堂できしめんをいただいた。鰹出汁のいい香りだった。
泣いた後に食べる温かいもの、とても沁みた…。

休憩後、骨と灰になった姿の祖母と対面した。
人生でそうそう見ることのない光景だし、さっきまで肉体があった存在があっけなくカラカラに乾いた骨と灰になってしまったという事実はなかなかにショッキングで、こうして文を綴っている今でも涙ぐんでしまう。
お骨袋には、頭蓋骨の一部、上顎、下顎、喉仏を入れた。喉仏を入れる理由を説明されたけど、感情がそれどころではなくて、何も覚えていないや。
集骨が終わっても、未練がましく残りの骨をずっと見つめていた。これが祖母なんだって思うと本当に帰らぬ人になったんだなって悲しかった。

これで全てが終わり、帰りは親族の運転する車に乗った。
祖母と特に親しかった祖母の妹さんも、祖母と一緒に暮らしていた叔母さんも、祖母は最後まで「幸せだった」「ありがとう」と言っていたよと話していた。残された人間としても幸せだし、なにより安心した。

母と叔母は遺品整理のために名古屋の家へ行き、私は新幹線に乗り横浜に戻った。
新幹線の中でこの文章を書いている。
以上が2日間に起きた出来事だ。


思い出す祖母の姿

2年前までは元気な姿だった。
それまで毎年帰省するたびに名古屋駅の新幹線北口改札前で私の名前を愛おしそうに呼んで出迎えてくれたシーンが強く印象に残っている。
今後は名古屋に行ってももう会えないんだなと思うと喪失感がある。

私が今使っているiPhoneには7年前に家族でドライブに行ったときの写真があり、とても元気そうな祖母の姿が写っている。
祖母との一番最後の写真は2021年のものだった。
2022年から祖母が病気をしてしまったので。

生きている祖母に最後に会ったのは比較的最近で2023年8月のことだった。
もうそのときにはだいぶ弱っており、かなり痩せ細っていたので、最初に会ったときにはショックのあまり泣いた記憶がある。
弱っていて会話があまりできなかったけど、このときにしていたネイルを祖母に見せたら「私はこのブルーグリーンが好きやわ」って言ってくれてたなぁ。私も好き。

新幹線に乗っているときに撮ったネイルの写真


それと、ベッドに横たわる祖母が「昔みたいに元気になってまたいろんなところに行きたいわ」と言ってたことも記憶に残っている。本当に元気になって欲しかった。

生前の祖母は、私をたくさん可愛がってくれた。
私が年不相応に幼くて、のんびりしていて、頼りない人間だから心配だったのかもしれない。
少食であまりご飯を食べられなかったから、祖母からは「もっとたくさん食べなさい」ってしょっちゅう言われて、うっとうしいと思ったこともあるけど、その言葉は私のことを心配してかけてくれてた愛のある言葉だったんだなって今はわかる。

私は本当に愚かな人間なので、失ってから大切さに気付いて後悔することばかりだ。
もっと祖母孝行できるタイミングがあったのにな、たくさんすればよかったな。
個人的に最も心残りなことは、祖母に花嫁姿やひ孫の姿を見せられなかったことだ。
こればかりは巡り合わせやタイミングなので私だけの力でどうにかできることではないが、祖母は家族の誰よりも楽しみにしていたので。

会うことも、会話することも、生きているうちにしかできないことだ。
そして、人間である以上、死は平等に訪れ、別れはいつか必ずやってくる。
世の中にはいろいろな家族がいるから、全人類に対して「親を大切にして」とは言えないが、お世話になった人がいたら大切にしてあげてほしいと筆者は思う。
人生は有限であることも強く実感した。生きているうちにしかできないことがたくさんある。
少しでも生きていてよかったな、幸せだったなと思える人生を歩めるように有意義に生きていきたいものだ。

いつまでもメソメソしていたら天国の祖母も心配するだろうから、前を向いて生きていくことを誓い、このブログを締める。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?