一喜一憂しないことにした。

もう、一喜一憂しないことにした。
なぜなら、疲れるから。
その一言がすべてを物語る。

人の何気ない言動に、気を遣ったり、落ち込んだり、悩んだり…。
気にしすぎと言われるたびに、分かってくれる人がいないという現実に打ちのめされ、気にしていないふりだけはうまくなってきたのだ。

それでも、気にはなるから、他人と自分の2つの感情に振り回される羽目になり、その間を行ったり来たりして疲れてしまうのである。

そして、行ったり来たりを繰り返すうちに、自分と他人の境界線があいまいになり、他人の言動に「自分だったら、そんな言い方しないのに。」などと無駄にイライラして、心のシャッターを下ろしてしまい、そんな自分の器の小ささに嫌悪感を抱いてしまって、なかなか抜け出せなかったという経験も少なくない。

自分でもわかっているのだ。面倒臭い性格だと。

でも、そのおかげで役に立っている部分もあるのだ。
それは、感受性が高いこと(いや言い切れないので、決して低い方ではないと思う)

そのおかげで、共感能力は割とあるほうだと思うし、人の立場に立って考えられるし、人の笑顔が好きだし、きれいなものやおいしいものなどに感激しやすい。

その中で、私が仕事をする上で一番良かったと思うのは、
人の笑顔を見ると、すごくうれしい気持ちになることである。

一言でいうと、笑顔は私に元気をくれる。


と、そんな私が一喜一憂しないと決めたのは、人の笑顔に対してではない。

人の機嫌の良しあし、そこから派生する言動に対してである。


振り回されるのは、もう嫌なのだ。
とはいえ、それでも、振り回されなくても、風にあおられて、足元がおぼつかなくなることはあるのだが。

一喜一憂の喜ぶの方だったらよいのではないかとも思わなくないのだが。

でも、その喜ぶはぬか喜びの方なのかもしれない。

だったら、一喜一憂などせずに、どっしりと構えたほうが、野球のキャッチャーのようにうまくボールを受けとることができるし、ブレなくてよいとも思う。

というわけで、最近、自分と他人の境界線を右往左往して、一喜一憂しては落ち込んでいたのだが、明日からは、ドシンと構えていきたいと考えている。

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