なんとなく安部公房の鞄の話
なんとなく、昔読んだ(今も本棚にある)安部公房の「鞄」を思い出したので、うろ覚え感想文を書こうと思う。書き終わったら、本を読み返そう。
私が、一時期、安部公房にはまったのは、高校の教科書に「鞄」が載っていて、難しいけど面白いと思ったからだ。
あらすじは、確かこうだ。
ある会社に、大きな鞄をもった青年が、かなり前に出した求人に応募したいとやってくる。
それに、驚いた主人公が、理由を聞くと、
青年は、「消去法です」と答える。
彼の持っている鞄が、重たいせいで、坂を避けたりして歩かなければならず、結局、主人公の会社にしかたどり着けないというのだ。
彼の話を聞いた主人公は、青年の話に納得したのか、おもしろがったのか、雇ってあげることにして、青年が席をはずしている間に、彼の鞄を持って歩く。そして、嫌になるほどの自由を感じる。という話だったと思う。
何が、心に残っているかというと、主人公が、青年の重たい鞄を持って歩いていると、鞄に行き先を制限されているのに、「自由」を感じているところだ。
鞄に制限されているのに、自由という感覚。
鞄が導いてくれるという、安心感。
なんとなく、分かるような気もしなくない。
まず、青年の持っている鞄の中身は、何なのか?
今の私なら、「生きていく上で必要な常識やしがらみ」だと考える。
本当は、そんな鞄なんて欲しくないし、持ちたくもない。
でも、大人として生きる上で、社会からは当たり前のように求められている。
青年は、それに囚われ支配されることで、迷わない自由や生きやすさを手に入れたのではないか。と考えた。
そして、青年の鞄を持って歩き始めた主人公は、鞄を持ったことで、今まで内面に持っていたものを外在化してしまう。
外在化することにより、鞄に囚われ支配されてしまったのではないか。と考えた。
では、主人公の言った「嫌になるほど自由だった」とは。
鞄に支配され、不自由さに身を任すことで、制限された自由の中にある自由に気づいたのではないか。
また、今まで、主人公が内面に持っていた鞄は、青年の物よりも軽く、自由さも不自由さもあまり意識してなかったのではないか。
と、考えた。
分からないながらに、まとめると自由と不自由さの関係なのかなと思った。
●●する自由
●●しない自由
不自由さの中でしか見えない自由
壮大な自由
自由の中に生じる不自由
自由と不自由の曖昧さ
また、鞄に身を任せて歩いていく安心感とは、
日本の社会で、道を外れることなく、いわゆる普通に生きていける安心感なのではないか。とおもう。
高校の時、どう習ったんだろう。
すごく、気になる。
最後に、私の鞄は、大きな穴が開いていると思う。
落ちたものを拾いに、来た道を戻る。
それでも、やはりそこに、自由はあるのだと思っている。
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