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たっぷり試し読み

宝胤の夢/1 宝胤

 大きな、さかなだったと思う。
 それは、灰色や、青や赤に光る砂つぶの海をわたる。
 
 おおきなさかな―
 地上の凡てを灼き尽くすような太陽をものともせず游いでいく。
 ぎんいろの、まぶしい飛沫をたて、どこまでもわたって。
 雲でできた天上の輪を目指し、ひときわおおきく跳ね、
 そうして、僕の顔に夢の飛沫ではない砂つぶが、ざぶんと掛かった。

「皇子が落ちた!」
「駱駝を散らせろ!」
 兵士たちの怒号が飛び交う駱駝の群れの足元で、唐突に夢から覚めた少年は状況がわからないまま、したたかに撲ち付けた体が硬直するのを感じた。
 背中から落ちたせいで息が詰まったということもあったが、目の前を、後ろを、あちこちを太い駱駝の足が踏み抜いてゆく地揺れと足音に一瞬で凍り付く。
 駱駝から落ちたことを悟るなり無防備に緩んだ四肢をぎゅっと引き寄せた。ころんと小さな石のように丸くなった少年は、どうかどうか踏まれませんようにと必死で祈った。
 祈りが聞き届けられたのか、少年が踏み抜かれることはなかったが、蜘蛛の子が散るように方々に駆け去ってゆく最後の駱駝の足が肩に当たり、殴打される衝撃と痛みに砂の中に転がった。詰めていた息が破裂したように吐き出る。
「なんだ、さすが死んでない」
「馬鹿、事故をそんな風に言うんじゃない」
 ゆったりとうたうように話す、耳馴染みのよい声がした。絶えず吹き渡る風の中にあってもよく通り、すんなりと耳に届く。
 反対に、少年と共に砂漠を同行してきた駱駝乗りの男たちはいつも不機嫌そうな低い声で、それに聞き取りづらい早口で喋るためひとしお余裕があるように聞こえたのかもしれない。
 痛みに呻きながら顔をあげると、薄く巻き上がる砂埃にかすむ二人分の足が目に入る。暑い砂漠には珍しい黒のすっきりとした長衣は薄手の綿麻だろうか。
 足首まで覆う丈の上衣は腰のあたりから裾が前後に分かれている。緩い風に翻り、同素材でたっぷりと布を使った幅広の下衣の揃いは、どこか涼し気に見えた。
 少年はその狭い視界で捉えた初めて見る形の衣服に、砂漠を越えた先にある国、次の目的地であるチェレステ皇国のひとだろうかと頭の端で考える。
 二人いる片方がさふさふとやわらかな足運びで歩み寄ってきて、そうっと少年の肩に触れた。痛みに喘ぎ脂汗の滲む幼い顔立ちを覗き込み、視線を合わせてにこりと浮かべられる人懐こい笑みに、痛みに緊張し引き攣る筋肉がふやっと解けたような気になる。安心させる笑い方だ。
「早く連れていって手当てしてあげて。兄さんは俺と先方に」
「いや、きみが連れて行くべきだ。宝胤の手当てをファランにやらせるのは不安だからねえ?」
 でも、と二の句を次ごうとする男を、あとから歩み寄ってきた男が止めた。
「任せてよ。そりゃあきみがいるに越した事はないかもしれないけど」
「わかった、任せる。戦争しないでよ? 武器は抜かない抜かせないこと」
 肩に触れていた手がするりと脇に差し込まれ、驚くほど軽い手つきで少年は抱き上げられた。高い視界に目を丸くすると、先ほどより近くにある、整った美しい顔立ちに心臓がどきりと跳ねた。
 眸は渇き始めの茶を帯びた濃い血色、光の角度で褐色のようにも鮮やかな紅にも緋にも見える、底知れない赤銅だ。光の射し方で万と色が変わる。
「敵じゃないから安心してね」
 返事をしようと思ったが、まともな言葉は出せなかった。痛みに歯を食いしばり、辛うじて呻き声がこぼれないように堪えているのに精一杯だった。
 敵ではないという言を鵜呑みにするわけではないが、敵だろうが味方だろうが現時点で自分に抗う術などないと少年はわかっていた。
 運ばれた先、日射しを避けた影の中に身体を下ろされる。
 砂漠の真っ昼間、強い光から逃れるだけでほっとする。砂漠では肌を焦がす強い日射しを浴びるだけで体力も精神もじわじわと削られていく。
 もうひと月近くも、少年は駱駝の足でこの熱砂の海を渡ってきていた。

 患部を見るため服を破るよと聞こえる間にも少年の衣服はびびびと簡単に引き裂かれ、破いた彼は酷く鬱血しはじめた肩をしげしげと眺めた後、やわらかく清潔な綿布をあて、次に添え木をして一先ず肩周りを動かせないように固定した。
 しゅるしゅると巻き付ける薄布から、鼻が奥まですっと通るような澄んだ薬草の香りが漂った。
「俺たちはチェレステ皇国の者なんだけど、きみはディンガディンガの皇子で間違いないね?」
 湾曲した壁際にとびきり厚い敷物を敷き、わた入りの掛布やまくらをありったけあつめた場所に少年が寝かせられる。
 一応の確認といったふうの声色で問われ、女神も嫉妬するだろう女性的な美貌ながら、やはり男性らしいことをその声色で認識しながら、少年はずきんずきんと激しくうずく痛みに眉を寄せどうにか肯く。
「そう、ならいいんだ。痛み止めを作るから、少し我慢していてね」
 鎖骨の中心から肩の端まで、身体を前後から挟む添え木にがっちり固定され非常に居心地が悪い。壁と壁の狭い隙間に無理やり詰め込まれたみたいだった。
 おまけに痛みはこれでもかと激しく主張し、最早痛いのか熱いのかわからない。
 視界が明滅するほどの眩暈に、頭痛もある。頭の中身が熱を持ち膨らんで、このまま膨らみ続けて破裂してしまうのではないかと馬鹿な不安が過ぎった。
 自分が今きちんと呼吸できているのかすらわからず喉が引き攣る。額を、頬をだらだらと伝う汗が気持ち悪いのに、手足は凍えてしまったように感覚がなく力が入らない。駱駝の足が当たっただけで、こんな状態になるんだ、と固い骨の内側に苦しく詰まる頭で考えた。
 相当痛んでいるのだろう少年を横目に、彼は手元に引き寄せた薬箪笥から既に練ったり擂ったりしてある薬草を必要な分だけ取り合わせ、更に練り合わせて小さな丸薬を作った。
 当たっただけとは言っても、小柄な少年には蹴られたのと同じ衝撃だったろう。
 目釘を打ち込まれた魚のように身体を強張らせる少年を抱えて上体を起こし、慣れた手付きで水と共に飲ませてやる。ほっと息を吐いた瞬間を狙って後頭部の下、うなじよりも少し上のやわらかいところを指でとんと突き、自国流の応急処置を施す。
 敵意も何もないひと突きに少年はあっさりと意識を手離した。人間の急所、その中でも秘孔を的確に突くのは難しいが、彼は手慣れていた。
 酷い怪我の時、下手に意識があると変に身体に力を入れるせいで無駄な体力を消耗する。怪我人をどうしても自力で歩かせなければならないような状況でない限り、意識を失わせ仲間内で運ぶのがチェレステ軍の常だった。この苛酷な砂漠では残り体力の有無が生死に直結することがよくあるからだ。
 少年が目を覚ます頃には薬が効いて、痛みは抑えられているだろう。
 適当に投げてあった外套を引き寄せ、畳んで少年の背にいれてやった。背側にある添え木のせいで身体に変な負担がかからないように。意識がない間は寝返りも打たない。これで患部を休めるには充分な環境が整った。
「引き渡しが済んだよ。なんとなく不満そうではあったけどね」
 男二人が戻り、寝かされている皇子を見やった。
 顔色が悪く唇は青い。壁際に集めたふかふかの布の海に顔だけ出して埋められたような姿だ。無防備な寝顔がひどくあどけない。
 その側で、手当を済ませた彼は薬箪笥の抽斗をきちんと押し込み、扉を閉じた。
「手綱オレとるぜ。どこに向かう?」
「とりあえず今夜は一番近いところで。なるべく早く国には戻りたいけど、あまり揺らして怪我が痛んだらかわいそうだし」
 了解した、と答えた男三人のうち末弟であるファランは御者席に移り、長兄シデが次男ルディの側をすり抜けそりの奥へと乗り込んだ。
 彼らの乗り物はチドぞりと呼ばれ、チェレステ皇国にほど近い地帯、局部的に棲息するチドという大型爬虫類を飼い馴らし、手綱をかけて牽かせるもの。
 チドは鼻先から尾先までが実に十ジラー(※一ジラー約五十センチ)をゆうに越える砂漠動物で、巨大な蜥蜴の姿をしており、大きな鱗はひとつひとつが人の拳ほどもある。とりわけ大きな個体ともなると十六ジラーから二十ジラーにも及び、これほど大きくなるとおおよそ人間の手に余る。
 大型化したチドは凶暴で飼い馴らすのが難しいため、この大きさのチドは国内には皇帝のそりを牽くための特別な二頭だけしかいない。
 チドに繋げるのは特徴的なラッパ型をした、屋根一体型の箱ぞりの一種である。
 あちこちから吹き付ける砂漠の風の中を走るため高さはあまり無く前後に長い。すぼまった方に御者席が組み込まれ、内部は成人男性の二・三人が横になれる程度の大きさがある。
 屋根の形に工夫があり、ゆるくとがる山形はすなわち船底の形をしていて、特にやわらかい砂地帯を走る時などに、中に仕込んだ床板を引き抜き、本体の上下を入れ替えて走れるようにしてあった。
 出入口となるそりの背を正面から見ると上下から軽くつぶした楕円形で、出入口はそり板か船底のどちらが上下にあろうと開くよう上下左右四つに分かれた観音開きとなっている。
 一般的なチド一頭で成人男性の七・八人が乗る中型そりまで牽くことができ、国家要人などを乗せる特別重厚なそりを牽く時や、速さを出したい時はチドを二頭三頭と増やせばいい。太く短いが俊敏に動く脚で砂上を滑るように移動するチドは、砂漠において最も優れた運搬能力を持つ生き物であった。
 チドを見るなり狂乱し騎乗した人間を振り落として逃げ惑う駱駝たちを追いかけ奔走している隣国ハレルンの使いを後目に、チドぞりはなめらかに砂地を滑って進み始めた。
「嵐が来そうな感じだねえ」
 ざあざあざあざあ。そり板が砂地を滑る音、頭上に吹き荒れる風の音が絶えず聞こえるそりの中で、シデがのんびりと声をあげた。
 御者席のある前部と、少年を寝かせている後部には砂が入り込んでこないよう設計された空気穴があり、走行するとそり内の空気が循環する造りになっている。
 風が通ってさえいれば、長時間日光を浴び続けても殆ど内側へ熱を伝えない種類の樹を素材にしたチドぞりの中は、とても快適に過ごせる空間となる。
 乗り込んでいる二人は羽織っていた外套を脱ぎ、砂漠の最中に着るものではなさそうな軽い衣服で寛いでいた。
 兄の言う《嵐》が物理的なものかそうでないものか、どちらを指すのか考えつつ、適当に相槌を打つルディは少年の額や首筋に滲む脂汗を水を切った布で拭ってやっていた。
 痛みにあえぐように浅い呼吸を繰り返す姿を見下ろし、赤銅色の眸が憐れみに暗く沈む。
「来ないといいよね、辛い嵐は」
 兄弟の属するチェレステ皇国は、大陸ナーナの東端にある小さな果ての国だ。
 国土は北方一帯を砂漠のすぐ側にあるというのに年中頭に雪を頂くデマルガン山脈、東南を赤い海レーデレーデ、西を大砂漠ヴァスティエという過酷な自然に押し込められたような形で、平地から山裾にかけた猫の額ほどに展開している。
 対して駱駝乗りの隣国ハレルンの使いたちが帰っていく国は、チェレステ皇国から遙か西、大砂漠ヴァスティエの次に塩湖をいくつも越えた先にある。北にある大塩湖アヨ・ヒから南へとまっすぐ下る塩河を擁すが、この水が含む塩気のため土地は耕作に適さず、細々と製塩業を営む王国だ。
 様々な自然に押し込められるチェレステ皇国と異なり、ハレルン王国は大陸の中央に荒々と広がる平地を中心とした広大な国土を持つが、人は比例して少ない国であった。それでもチェレステ皇国の何倍もの人口ではあるが。
 とみに貧しく食うに困るほどではないと聞くものの、国民の殆どが製塩業に携わるハレルン王国の生活は、山からは金属や宝石を産出し、海からは海産物を得、国土の半分近くを占める美しく整えた海岸部には数多の船が出入りする港を擁し、外海を渡った先のあらゆる国と貿易で繋がり、国民の数に反比例する富を生み出す経済構造を持つチェレステ皇国とは大違いだ。
 内陸で細々と製塩を営むハレルン王国と、大陸の端で海を越えた先の国との貿易によって栄えるチェレステ皇国とでは国力にも経済にも大きな開きがあった。

 ルディは少年の世話を焼きながら思案する。
 無事にこの子どもを預かり受けられたことは良かった。まさか遠目にチドを見ただけで狂乱し暴れ出すような駱駝を使っているとは思ってもみなかったが、落ちた少年が頭を蹴られたり内臓を踏み潰されたりしなかったのは幸運だった。鬱血はそれなり酷く、痛む様子から折れてはいるかもしれないが。
 少年はここ大砂漠ヴァスティエから極西、ハレルン王国を越え、無数の小国群を越え、チェレステ皇国とは真反対の大陸の西の端、半島国家ディンガディンガの第三皇子である。そんな場所から同行者の一人もなく、訪れる国々の助けを得てここまで来た。
 彼は自国の神拠り人によって預言を享けた、宝胤と呼ばれる子どもだった。

 各地の神殿は信奉する神こそ違えど、一様に神拠り人と呼ばれる人間が存在している。それは神官や神仕、神子などとは本質的に異なる。神拠り人は文字通り神の憑代となり預言するために存在するもの。多くは神官や神仕を兼ねるが、やはり別格の扱いを受ける。
 神が直接人に言葉を伝えるなど滅多に起こることではなく、少なくともここ百年、神拠り人に神が降りた例は伝えられていない。
 だが、ディンガディンガの神拠り人に神は天降り、絶対豊饒の約束である神紋を、これを享けるに相応しい国に達した宝胤を介して授けることを祝りあげた。
 この神託によって宝胤に選ばれた皇子は旅に出ることとなり、絶対豊饒の約束を欲する各国が神紋を得るまでの道中を援助してきた。
 宝胤を輩出した国は、それだけで神の恵み浴する土地と化すという。
 かくして宝胤は、神に選ばれし使いとして神紋の降される国を探すこととなったのだが、彼の行く先々には、手厚く歓待し、ひと時でも長く自国に滞在させようという下心を見せる国も数多あった。
 チェレステ皇国の富裕に臍を噛むハレルン王国にしても、神が直接与え賜う豊饒の約束は喉から手が出るほど欲しいものであったろう。逆に言えばハレルン王国ほど神による豊饒の約束を必要としている国は、経済状況から鑑みるに大陸ナーナ上に他にはなかったが、神紋は降されなかった。
 ハレルン王国は大陸の中央近くにありながら、他国とはどこからも距離があり密な交易を結ぶには遠く、孤立している。
 大塩湖アヨ・ヒから流れる塩河の水で作る塩はそれなりの品質でしかなく、薄い繋がりでは輸出もたかが知れている。
 人々は他国へ流れたくても、最も近い隣国へたどり着くまでの遠い道のりの糊口を凌ぐ食糧も金銭もない。食うに困り餓え死ぬほどではないとはいえ、辛うじて死なない、辛うじて生きていられる程度のギリギリを生きる貧国だった。

 そりが緩やかに停まった。少年をハレルン王国から引き受けた時より一刻程が経ち、空はもうすっかり暗く、外は衣服を重ね、更に毛織の厚い外套を羽織らなければ凍えるほどの気温になっていた。
 断熱性が高く粘りの強い木材で造られたそりは中にいる分には比較的快適に過ごすことができるが、日が落ち冷えた空気が通るとそれなりに寒くはなる。
 そり内のルディとシデは下がる温度に合わせて適当な服を重ね着し、すっかり夜の装備だ。少年は早々にわた入りの掛け布の上を更に毛布でくるまれている。
 ルディは外套を羽織り少年の様子見を兄に任せ先に外に出た。風は比較的ゆるく吹き付け、吐く息が白く濁る。砂埃に煙る空に月が霞んでいた。
 御者席から降りたファランがチドを労いベルトを外してやっているのを手伝う。
 そりは屹立する岩壁のすぐ足元に沿って停められ、突風で転がったり飛ばされたりしないよう、あとで岩壁に杭を打ち込み綱を張って固定する。
 自由になったチドはさほども離れない場所に腹が埋まる程度の浅い穴を掘り、休む場所を整え始めた。
 岩壁の足元には砕けて落ちてきたのであろう大小様々な岩が転がり、ルディは自身の身丈の何倍もある巨石の陰を覗き込んで声を上げた。
「ここだよ」
 ハレルン王国とチェレステ皇国の間には、世界で最も広大な砂漠、ヴァスティエが横たわり、あまりに広大で苛酷な環境であるため、特別強靭な砂漠品種の角駱駝や、チドなどの大型砂漠動物に頼らなければ、人の足では横断も縦断も難しい。水が湧く場所は殆どなく、オアシスも存在しない。
 時機によっては雪解け水が河を作っていることがあるが、流れる場所がまちまちなのでそれを頼ると痛い目を見る。流れているのは大きな河だが、見つけられなかった時は、乾いて死ぬだけだ。二国は国土も貧富も差が大きいが、争いが起こらないのはこの砂漠があるからだった。
 チェレステ皇国はしかし、様々な目的から砂漠のあちこちに、滞在できるよう備えた野営地を幾つも隠し管理している。ここもそのうちの一つだった。

 巨石の陰になった岩壁には人が半身になって滑り込めそうな幅の、縦に走る亀裂がある。ルディの頭の上にランプを掲げるファランは兄の頭越しに覗き込んで場所を確認するが、巨石の陰にある亀裂の奥は、掲げた明かりだけでは見えなかった。そこにはただただ底知れぬ真っ暗闇が満ちている。
 するりと身を滑り込ませ、内側から腕を伸ばしたルディがランプを受け取った。
「明かり点けとくから、兄さん呼んであの子と荷物運び入れてくれる?」
「了解」
 そりに向かって砂を蹴散らす足音を聞きながら、ルディは人工的に穿ち広げた洞窟の壁に埋め込んだランプの油が駄目になっていないか確認し、手持ちから火を移して回った。
 洞窟内六箇所のランプに火が入ると中は充分明るく照らされ、出入口の亀裂横に転がる、砂埃を被った置き荷が確認できた。場の中央には覆い布を取るとすぐ火を入れられるよう積まれた薪がある。
 大砂漠ヴァスティエのハレルン王国に近い地区にあるここは、使用されることが殆どない。チェレステ皇国が砂漠に漕ぎ出すのは、限られたチド狩りの季節と、細々とだがわずかに交易のあるハレルン王国よりも向こう側の小国群へ荷を運ぶ時くらいだ。
 それでも遭難者などがあったときのため、置き荷の中身は定期的に交換されるが、泥封にある刻印は、もうあと半月ほどで設置から丁度一年が経つ日付だった。
 ルディは一番大きな甕を薪のそばで横に転がし、剣の鞘で叩き割った。中に入っていた金属の調理器具や様々な道具を整理し、火を入れた薪周りに支柱を立て鍋を吊る。
 そりに載せていた荷をどやどやと運び込んできたファランから一番に受け取った水をなみなみと注ぎお湯が沸くまでの間に、壁際の砂の地面を掘り下げ敷物を敷いた。洞窟内は暑いからと早々にファランが脱いだ毛織の外套も重ねて敷いてしまう。
「皇子そこ?」
「うん」
 すっかり整えられた場所に少年が寝かされ、そりの中同様にわた入りの掛け布などをたっぷり使ってもこもこと周りを固める。
 少年のあとにも荷を運び込むために何往復かした後、シデはファランとそりを固定し、状態を念入りに確認した。そりは重たいが、ヴァスティエの気まぐれな強風はそれすら容易くさらって破壊することがあるからだ。
 特に、どんな拍子で発生するのか未だ解明されていない、地表の砂を巻き上げ滑るように近づきながら大きくなる衝き波などは非常に危険な風とされる。
 衝き波の中は不規則に激しく渦巻く暴風に満ち、どんなに重たいチドぞりでも風向きによっては一瞬で転がされてしまう。何より巻き上げられた砂や礫は皮膚に直接やすりをかけるが如く荒々しく、御者殺しとも呼ばれ恐れられていた。
「あー腹減った。これ開けて食っていい?」
「いいよ。ついでにそのまわりの荷物こっち寄越して」
「あいよー」
 焚火にかけた鍋の番をしているルディのそばに、ファランが置き荷の壺をごろごろと転がしていく。置き荷には誰が来ても必要なものが潤沢に揃えられ、使った者が国に帰って報告をすると、管轄者が後日新しいものを届け、またいつでも使えるように備えておく。
 万が一の遭難などの避難先にも想定してあるため、乾燥させた豆類や穀物、乾物を始め、あらゆる保存食が細かく分けられ壺や甕に密封して置かれている。ルディはその中から小麦粉と干し肉の壺を開け、食事の準備を始めた。
 シデは早々に自分の場所を整え、焚火を背に横になって休んでいる。ルディは時折少年の様子を見つつ、沸騰し始めたお湯で食べやすい大きさに千切った干し肉を戻し、持ち込みの根菜類の皮を剥き小さく切って一緒に煮込んだ。
 火が通るまでの間にまな板の上で小麦粉と水を合わせて練り、平たく伸ばしたものを砂に埋め、燃えている薪を幾つかその上に移す。
 鍋の中の具材に火が通ったら小麦粉を少しずつ溶かしこんでとろみをつけ、塩とスパイスで簡単に味を調えて完成だ。
「兄さん、ファラン、食事できたよ」
 椀や匙を用意するのを弟に任せ、埋めた小麦粉の練り物を掘り起こす。
 砂の中で薪の熱を受けいい具合に焼けた表面についた砂を丁寧に布巾で落としていく。この無発酵の麺麭はクマッチと呼ばれ、チェレステ皇国では食事に欠かせない主食の一種で、熱々の羹や、砂糖を入れた甘いお茶にじゃぶじゃぶ浸して食べるのが好まれる。
 国内に流通している小麦は東の大陸オーラムから船で持ち込まれる輸入物で、何も混ぜずともほんのり甘く、焼くと香ばしさと共に甘みが際立つ。
 牛や羊など家畜の乳や酪と混ぜ合わせ、発酵させて成形したものを鉄鍋などに詰めて焼くやわらかい麺麭も街中では食べられるが、こと砂漠において乳類はすぐ腐って駄目になることを思えば、やはり昔ながらの水のみで練って焼くだけの素朴なクマッチが利便性に長ける。食べ残しても乾燥こそすれ、食べられなくなることはない。
 クマッチは何も混ぜ込まず生地だけを焼いたものが定番だが、細かく叩いた肉を包んで焼いたものや、擂った香草類を混ぜ込んだものなど、手持ちにある具材で何とでも工夫が利き、チェレステ人なら老若男女問わず誰もが作る。
 兄弟三人で焚火を囲み慣れた食事を摂り、食べ終えたあとの片付けをシデとファランがやってくれている間にルディは焚火に砂をかけ、壁のランプの明かりを落とした。
 火を残した手持ちのランプを、片付けを終え毛織の外套と襟巻で厳重に防寒対策をしたシデが当たり前のように受け取って一人外に出た。不寝番をするのだ。
 一番大きな熱源である焚火を消すと、洞窟の中はしんと静まり返った。出入口からひょうひょうと風の音が聞こえる以外は、何の音もしない。
 すっかり温まった空気の温度はこれから時間をかけて下がっていく。
 出入口の岩壁の亀裂にはシデが外から布を張り、これで朝になって日が昇り、暑くなる頃にはちょうどいい気温になるだろう。
 真っ暗闇の中、ファランは既に整えてある自分の場所で横になり、ルディは少年の側で剣を抱え壁に背を預けて目を閉じた。

 そよ・とわずかばかりの冷気が頬を撫ぜる感覚でルディは浅い眠りから目を覚ました。不寝番の交代の時間だ。
 血縁でいる時は生まれの早い順に、仕事の関係でいる時などは位の高い者から順にするのがお約束となっている。暗闇に目を凝らし、少年の様子が変わらないかみてから中に戻ってきた兄が羽織っていた分厚い毛織の外套を貰う。たっぷりとした襟巻で、頭と口元を覆った。
「皇子は?」
「薬が効いているんだろうね、呼吸は落ち着いたけど、一応みててあげてね」
「わかった」
 ルディが交代で外に出た。ごつごつと転がった岩の、ひときわ大きな岩の上に腰を下ろし、月明かりだけが寥々と降り注ぐ砂漠の景色を眺める。
 絶えず吹き荒ぶ風は昼間よりなんとなく静かに感じられ、巻き上げられた砂埃が晴れた夜空を霞ませていた。
 チェレステ皇国側に広がる砂漠は礫が多く荒々しい白灰の砕石地帯だが、ハレルン王国側にあるこの辺りは柔らかい赤茶の砂地がゆるやかな丘陵を作る砂の海であった。
 砂漠とひと口にいっても、中には様々な景色があり、全てが乾いた砂や岩石ではない。場所によっては草木が茂り、季節が良ければ花が咲き、川が走るような場所もある。無論そこに至るためにはチドの足が必須だが、人足を拒む苛酷な環境なればこそ誰の手にも脅かされないでいる美しい場所も多い。
 これから皇子を連れて一度チェレステ皇国に戻り、怪我の具合によってはしばらくの療養の後、はるか北西にある永世中立国ラトムールを目指すことになるだろう。地理的にはハレルン王国の真北に位置する国だが、この二国の間にはハレルン王国の国土と同じほど大きい塩湖アヨ・ヒが横たわっている。
 塩湖アヨ・ヒは極めて高い塩分濃度を持ち、更に水温も非常に高い。大砂漠ヴァスティエが隣り合うため熱による水分の蒸発量も多く、湖の水は肌に触れると痛みを感じるほどで、殆どの物は浸けておくだけで傷んだりとけたりしてしまう。下手をすると延々と砂漠が続くだけのヴァスティエよりもよっぽど危険な場所であった。
 当然どんな素材の船もすぐに傷んでしまうため湖は越えられず、迂回するにしても相当な距離となってしまう。故に二国間には殆ど交流がない。
 これはチェレステ皇国を含んでも同じことで、三国には、それぞれの間に人間では到底太刀打ちできない苛酷な自然環境が横たわり、これによって殆どの交流を諦めざるを得ないのが現状であった。無理して繋がる利点が少ないこともある。
 ただ、チェレステ皇国から永世中立国ラトムール、またその逆に限っては、ハレルン王国までよりも距離は遠いが、互いにチドの足を持つためにほんの僅かばかりではあるが、年に数度挨拶程度の使節のやりとりがある。逆に言えばそれしかない。
 皇子はさらにずっと西の方、それこそ地図で言えばこの大陸ナーナの最西端に位置する半島国家を出発し、北へ南へとじぐざぐに国と名の付くすべてを渡り、ハレルン王国を過ぎ、大陸の最東端にあるチェレステ皇国を目指してやってきた。
 チェレステ皇国はまだ遠いが、チドぞりがあるのでそれも余程天候や不運に恵まれない限りはひと月とかからずに到着できるだろう。ハレルン王国とはチェレステ皇国の発案で事前にやりとりをしており、砂漠の中で皇子の送迎を済ませることを決定していた。
 チェレステ皇国で休養をとると、この大陸ナーナ上で宝胤が向かうべきは残すところ永世中立国ラトムールのみとなる。そこに至ってもまだ神紋が降されなければ、海側へ出て森深き島国エ・ト・ヴォを始めとする、島に点在する国を渡りながら、東の大陸オーラムを目指すことになるのだろうか。
 まだあどけなさの残る少年は十を幾つか越したくらいだろうと思われた。ディンガディンガの王制がどうなっているかは知らないが、第三皇子とはいえ神に選ばれたからと手離すのは惜しまれたろう。会話らしい会話は殆どしていないが、目を見れば賢い子どもだということはすぐにわかった。
 ルディやシデ、この兄弟を始めまだ皇子を見ぬ高官たちも皆、宝胤がチェレステ皇国で神紋を降されることはないだろうと考えていた。もとより神の恵みに浴した土地であり、神による豊饒の約束など頂かずとも既に富貴な国であるからだ。
 傲りともとられかねない考えではあるが、これが只管の事実でもあり、皇帝からして兄弟に「皇子を無事保護し、安全に次へ送り届けるよう」との勅命を下すあたり、神紋を欲していなければ必要であるとも考えていない様が窺える。
 あからさまに言えば通り過ぎるだけのものなのだから、最小かつ上等な手段で確実に次国へ渡ってくれたらそれでいい。
 三人の兄弟は、そういった理由で選ばれた最小規模の送迎者であった。それぞれが普段から割と自由のきく地位にあり、戦力であり、判断力がある精鋭中の精鋭。
「ルディ兄ィ……おはよ。そろそろ交代する」
 ばさっと出入口の布を避けてファランが出てきた。
 考え事をしている間にあっという間に時間は過ぎ去り、月はすっかり地平線のそばまで落ちている。深い深い紺碧に星を散らした天上の絨毯は色合いを淡く滲ませ、朝の気配に空気が青く染まり始めていた。
 月が地平線に落ち、ぐっと一際暗くなった後、朱金の光条を射殺さんばかりに大きく広げ射す太陽が顔を出すだろう。いつものように。
 不寝番用の外套をファランに着せると、ルディは洞窟の中に戻った。
 日が射し始めても外は暫く氷点下の気温が続く。すっかり冷え切った身体には、ゆるやかに温度の下がった洞窟の中も暑く感じるくらいだった。
 出入口から見て一番奥に皇子、傍にはシデがついている。ルディは先ほどまでファランが休んでいた火の消えた焚火そばの敷物に横になり、今度こそしっかりと眠った。

旅過〈宝胤の夢スピンオフ〉/1 海路

 船が切る波の音と駆け抜けていく風の音に抱かれながら、ルディは目を覚ました。
 寝起きでうまく働かない頭で最近見慣れた室内の光景をしばらく眺め、気怠い身体をのたのたと起こす。昨晩無理に付き合わされたせいで腰が痛んだ。
 視界に入る手首の内側や、脚のあちこちに真新しい赤い跡が残っている。
 一人で眠るには広過ぎる寝台で薄手の柔らかい上掛けを手繰り寄せ、膝を抱えた。
 身体は重く、眼帯を外している目の傷がひりひりと痛んでいた。野生チドの逆立った鱗でざっくりと切れたところだ。
 眉間から頬骨の高いところを通り、耳たぶ近くになってようやく細く途切れる傷は膿みこそしないものの、まだ乾ききらずに生っぽい。医術師は乾燥させた方がいいと言うが、頭の中がじくじくと疼くような眼球の傷の保護のために眼帯が手放せない。
 頭の中心に根を張り巡らさんとする植物の種でも埋まっていて、発芽したのではないかと思うような痛みがずっと続いていた。
 痛み止めなどの薬は、もとより効きの悪い身体だ。気休め程度にしかならない。
 自然とため息が漏れたところで、キイ・と木製の扉が軋んだ。
 内側に押し開かれた扉から、暗闇に輪郭を与えたような褐色肌の男が足音もさせずにするりと入り込んでくる。
「ああ、起きていたのか。何か口にできそうか?」
「ナディーン……」
 夜を共にし隣に眠っていたはずの男はすっかり身支度を整えて外行きの顔をしていた。
 額や頬に描かれた不思議な紋様が昨晩見たものと異なっているなと観察しつつ、彼の名を呼ぶ。
 呼んだが、思ったより声は出ず乾燥しているせいで咳き込んだ。
「無理をさせたな、許せ。だがお前も悪いぞ」
「うん……ごめんね」
「寝台で枕を共にしながら心ここに在らずとは。躍起になってしまった」
「それはほんとごめん。だってこの部屋、風の音がよく聞こえるでしょ……」
 戻ったナディーンが抱えていた水差しからぬるんだ白湯をグラスに受け、ちょびちょびと飲んで喉を潤わせ、雲ひとつない空が見えるだけの大きな窓の外を眺める。
 ルディがトワと二人で借りている特二等船室は、細長い寝台が二つに小ぶりな卓と丸椅子が一つずつあるだけの部屋だ。
 窓掛けのついた小さなガラス窓が海側と廊下側にあるが嵌め殺しで開けられない。既に乗船受付を終えていた船に無理を通して取った船室だ。個室を借り受けられただけ恩の字だろう。西の大陸オーラムへ渡る船は多くない。
 ここ、ナディーンが借りている特等船室は寝室と居室が分かたれた二連間で、それぞれに海を眺めることのできる大きな窓があり、開閉も自由だった。
「やけに風が好きなんだな。チェレステ人だからか?」
「チェレステ人みんながそうだとは限らないと思うけど」
 熱砂の砂漠から、時に赤く染まる大洋から、雪被る山脈から。常にどこからか絶えず風が吹いている小さな国。東の大陸ナーナよりもさらに大きな西の大陸オーラムの人間から見ても、チェレステ皇国というのは特異なほど風尽きぬ土地であるという認識なのだそうだ。
 今はもう随分遠い。ルディの眼裏に映るのは、生まれ育った眩しいほどの白亜の国ではなく、隣りあう峻烈な砂塵舞う大砂漠だった。大砂漠ヴァスティエ、広大な砂の海。
 びょうびょうと激しくうなり殴りつけるかのように吹き付ける強い風を、アガドの強靭な両翼で切って翔る心地よさと高揚感を思い出すと自然にふっと口元が緩んだ。

 ナディーンとは西の大陸オーラムを目指して海を渡るこの船上で出会った。
 チェレステ皇国を終点に、隣国のエ・ト・ヴォ、北上して東の大陸ナーナと隣接する小陸ウィリヤンドを経由し、大洋を数ヶ月かけて横断し西の大陸オーラムにある大国マズレムを起点としている大型の貿易船である。
 国と国とを結ぶ船では最大を誇るこの船に、ルディは幼い頃からの付き合いで、側に仕えるトワを伴い自国ではなく隣国エ・ト・ヴォから乗り込んだ。
 先立って勃発した宝胤の子どもを巡るレーデレーデ海戦と杜の戦の後、ルディはチェレステ皇国へは戻らず、仲間たちと共にエ・ト・ヴォ近海の無人島を拠点にしてのんびり静養していた。
 砂漠で野生チドと争った時の傷を抱え、碌に休む間もなく戦争へと身を投じ、無理を重ねた反動か、怪我をしてからもう半年経つというのに目の傷は未だに癒えない。
 静養という名の絶対安静を強要されて過ごしても、まるで癒えてしまうのを嫌がるかのように傷は生身のままで、宝胤を生かすために負った傷が、同じ手で宝胤の命を奪ったことを責めているようだ。
 食い千切られてしまった腕がもう無いということに最近になってようやく慣れ、目の傷が癒えきらないという以外はもとの姿をすっかり取り戻していた。そうでなければ拠点としていた無人島から出しては貰えなかったはずだ。
 こんこん・と扉を叩く音が部屋に転がると、返事を待たずにトワが湯を張った鉢を抱えて入ってきた。ナディーンの部屋だが、慣れたものだ。トワからすれば主人にあたるルディが、ここで眠っていることなど当然のように把握している。
 寝台でぐだついているルディの側に歩み寄るなり、湯をゆるく絞った布でルディの身体を清め始めるトワを、ナディーンは窓辺の卓で水煙草を呑みながら眺めた。
「出来過ぎた側近だな」
 腕を無くしてからこの方、こんな風に至れり尽くせりの世話をされるのに慣れてしまった。
 腕がないという以外はもとに戻ったというのに相変わらず続けるものだから、そうしたいのならすればいいとルディはトワの好きにさせている。もとより世話焼きの男だ。
 そうでしょう、と投げかけられた皮肉に笑みを深めるルディとは正反対に、トワは冷ややかな視線で水煙草の吸い口を咥えているナディーンを一瞥した。
 トワがナディーンを良く思っていないことがはっきり示されている。
「ありがとう、トワ」
「部屋にお戻りになりますか」
「そうだね、疲れているから……。ナディーン、またね」
「ああ」
 昨晩脱ぎ散らかした衣服ではなく、トワが持参した新しいものを身に着けてルディは部屋をあとにした。乗客たちで賑わう時間にはまだ早い。
 人気のない通路をトワに半分身を預けながらゆったり歩いていく。
 最初こそ外の一切見えないこの船内通路に強く閉塞感を覚え呼吸が苦しくなるような感じがあったが、二ヶ月近くも乗っていれば嫌でも慣れてしまった。
 西の大陸オーラムにある、大国マズレムまでの船旅はまだあとひと月近く続くという。
「やっぱりナディーンが持ってるみたい。あれ」
「……入手できそうですか?」
「長期戦だなあ。難しい、流石呪術師というべきか……なんか、隙がないんだよね」
「そうですか。まあ、まだ時間はありますし」
「うん。マズレムに到着するまでには話をつけるよ」
 エ・ト・ヴォに現在君臨する国主、ヴェルメクに頼み込んで無理に客室を確保して貰ったことがもう随分と昔のことのように思えた。部屋に戻り、奥の寝台に横になる。
 故国にやり残したことはなく、皇帝自ら与えられた役職を示す黒衣を脱ぎ去った今、ルディは不安になるほど自由だった。
 国にいた頃は求めずともやるべきことが山積していたというのに。愛すべき国の民たちに、より安心できる豊かな生活の環境を整えることに心血を注いでいた頃が今は少し懐かしい。
 信頼のおける仲間たちと共に無人島で過ごす生活は純粋に楽しかった。
 怪我と戦とで摩耗し削れてしまった体力や身体の調子を整えることに重点を置き、子どもの頃まだ存命だった母とやったように刃を潰した剣で戦闘の訓練をしたり、足をとられる砂浜を走り込んだり、林に入って木の実やきのこを採取し、それを焼いたり炒めたりして食べた。
 そんな風に過ごした彼らは今、自分とは別の船で西の大陸オーラムへと向かっている。
 自由に生きる権利があって、好きにしてよいと言ったというのに一人残らずついてくると言う。
 世界の果てまで旅すると言ってもついてくる気なのだろう仲間たちだ。
 戻る故国をなくしても、ただ自分を愛し敬い身命を賭すという彼ら全員を愛していた。トワを含む彼らがいるから、まだどうにか生きていられるのかもしれない。

 寝台に横になりながら、曇った小さな窓の向こうに見える海原を眺める。空の青と海の青は似ているようで全くの別物だということを、最近になってようやく見分けられるようになった。
 チェレステ皇国においては、峻烈な砂塵舞う大砂漠ヴァスティエこそがルディの居場所だった。
 灼熱の風のなぶるような強さや乾いた感触、目を射抜くような真白の世界が随分懐かしい。
 船腹が波を切る音は砂漠に吹く風によく似ていた。
 湿気ているが、風に吹かれている間だけは姿の見えない不安を忘れていられる。
 あの愛おしい砂漠がどんどんと遠ざかるということだけが、ルディを不安にさせた。
 太古の神の血に連なるギギルの家に生まれたせいだろうか。その神に正式な名があるかどうかも知らないというのに、ただ砂漠が遠ざかるということが怖かった。怖い、という感覚を人生で初めて感じ取っていることを自覚したルディは寝台でぎゅっと小さくなる。
「トワ……」
「はい」
 手持ち無沙汰に丸椅子に座っているトワに手を伸ばすと、武器など似合いそうもない華奢な手指が求めるまま二人の指が絡んだ。
 寒さなどとは無縁のはずの気候の中、ルディの指先は冷たい。
「側にいてね……」
「はい」
 限られた船上で、やらなければならないことは何もなかった。
 暇を持て余した乗客たちは機会を作ってはどこぞに集まり、交流を深めたりホールを借りダンスや歌の会を催しており、当然のようにルディやトワにも誘いはあったが全て断っていた。
 それなりに着飾らなければならないような場に出るのは億劫だったし、ルディの隻腕隻眼は悪目立ちしてしまう。
 何よりもチェレステ皇国では死んだことになっているというのに、呑気に船旅をしていることを知られて面倒事が起こることも避けたかった。
 船上で知り合い、内々に親しくなった者の誘いにはたまに顔を出したりもしていたが、装飾品のひとつすら身に着けず、その場にいて当たり障りないだろうといった程度の衣服を纏うルディが、ただいるだけで周りの女性をくってしまうことはままあった。
 片目を失ってなお輝くような美貌は、手持ちのもので一生懸命着飾った女性たちの努力を頭から否定するようなもので、顰蹙を買いたくてそこに顔を出したわけではないと、そんなことがあって以来、誰に誘われても二度と人が集まる場には顔を出すことはなかった。
 乾き始めの血の色に似る暗い赤褐色の眸は閉じられ、指を絡めたままルディは寝入ってしまったようだった。
 冷たい指先が徐々にぬるんで体温を持つようになるのを感じ取りながら、トワは空いている方の手で上掛けを引き上げてやった。
 内側から光るような薄い皮膚、その目の下にうっすらと隈が浮かんでいるのを眺めやる。
 昨晩あの呪術師の男、ナディーンと目合っていたせいで寝不足なのだろう。最初は違ったとはいえ、今は目的があってあの男に近付き、部屋に入り浸っている。何も言わないところを見るに成果はいまひとつのようだ。
 トワは小さな窓から外を眺める。絡めた指を解くとルディが目を覚ましてしまうことを知っていた。こうして眠らせたからには、自然と起きるまで側にいなければならない。
「ルディ様――」
 そっと名前を呼ぶ。聞こえなくて構わない。何度となく呼び親しんだ名前だ。
 トワにとってルディ以上に大事なものはなかった。自身の命すらルディという存在に劣る。
 部下に抱えられ夥しい血に塗れ、砂漠から戻った瀕死の姿を見た時にはざあっと血の気が失せる音を初めて聞いた。
 続いて先の戦、這う這うの体で戦火を浴びる姿に何度肝を冷やしたろう。
 懐かしい砂漠で絶えず吹く強い風のような人だ。吹き続けるからこその風でもある。
 そんなルディの寝顔が安らかなことに安心する。
 無くした腕が痛むのだと言ってよく眠ることのできない夜がずっと続いていたのだが、船旅に出てからはふいに夜中に目を覚ますことも痛む腕に息を詰めて身を強張らせることも減ってきていた。
 日を浴び風に吹かれる姿の美しさには誰もが声を掛けることを躊躇うほどだ。
 大海原に無数に散る光の粒よりも強く鮮やかに輝く銀糸の髪も見事な色ツヤを取り戻し、その手入れに一層気合いが入る。
 西の大陸オーラムへ向かおう、とルディが言い出した意図は船旅を数ヶ月経た今もわからないままだが、何か目的があるのだろう。ないはずがない。例え無かったとしても、側にあることだけが己の使命だ、とトワは小さく笑みを浮かべる。
 この方が望むなら何もかも叶えてやりたい。全て与えてやりたい。全身全霊で応えたい。
 この気持ちがどこからくるのか知らないが、トワの望みは常にはっきりしていたし、それをこそ許されているという自負があった。

 日が暮れ、小さな窓からか細い月明かりが射し込む頃になって、不意にぎゅっと手を強く握り込まれた。体温が繋がり、爪先まで温もった華奢な手がきゅうきゅうとトワの手に甘えてくる。
「起きられたんですか」
「ああ」
「……、ルディ様?」
 刹那。薄闇の中、指先の温度とは裏腹に、返事をした声色が随分冷たくて、赤い眸がぎらと底から光ったような気がした。
「―――何でもない、起きたよ」
 ほろりと指は解かれた。
 ルディはふわわと大きな欠伸をし、それからオイルランプに目を向ける。
「すぐに」
 明かりを入れて欲しいと、言われるより先に受け取ったトワは硝子の火屋を抜いた。
 しゅば、と擦った燐寸で火を入れると、船室が橙の光に照らされる。ルディはいつも通りの油断ならないほほえみで、幾分か気分が良さそうな様子だ。
「ありがとう」
「何かお食べにならないと。食堂へ行きますか、それともお持ちしましょうか」
「外へ……」
 甲板に出たい、と言って上着を羽織って身支度をする。
 訝しげに視線を投げかけてくるトワに苦笑をもらし、ルディはその後食堂へと付け加えた。

 湿気た風がひょうと吹き、彼の髪を一房浚った。
 翻った銀髪が月光を受け、しらしらと輝く夜色の海原に一瞬とける。
 その凍てつく鋭さを見やり、トワは舳先近くで立ち尽くし、ぼんやりと水平線を眺めるルディに引っ掴んで戻ってきた肩掛けを被せた。
「体を冷やさないようにして下さい」
「うん、ありがとう。心配性だなあ、もう怪我人じゃないのに」
 日が沈み、昼間の青さを忘れ去った黒い海には冷たい月光と星が照る。降り落ちてくる光を目映く反射し有機的に蠢く海原が船腹を叩くやわらかな音に耳を澄ませていた。
 夜になったというのに、寒さに身を震わせることがないのは妙な感覚だ。
 砂漠の只中、凍てつく気温で見上げる夜とは随分異なる空のように思う。
 数ヶ月経ってようやく慣れてきたぬるい風は潮気と湿気を含んでべたついた。

 ルディは何もかもを故国に置いて出てきた。今、財産と呼べるものは何も持たない。
 この船に乗る前少しの間滞在したエ・ト・ヴォで、先の戦を共闘し侵略を成功させて国主となったヴェルメクから「兄に直接請求してくれ」と言ってルディが得た金銭が少しあるくらいだ。
 この金が尽きた後をどうすべきか、ということをトワは主を眺めやりながら考えていた。
 大陸間の移動には数ヶ月掛かる。貿易船は定期的に行き来してはいるが、故国にある兄弟から何か届けられたとしてもルディがそれを受け取れる場所にいるとは限らない。
 何か継続的に金銭を得られる手段を、それも早急に講じ確立しなければならなかった。
 他に可能な手段がなくなればこの主は、己の身を簡単に売る――と、トワはわかっていた。
 自身には幾許の価値もないと本人は思っているようだが、これを他者からみた時にどの程度に扱えばいいかは的確に把握している。
 肉体であろうが行為であろうが、望むものを得るための対価として必要なものがあり、己の裁量ひとつで差し出せる持ち物であれば何の気なく差し出してしまう。
 トワは目頭のあたりを指で揉んだ。軽い頭痛を覚えていた。
 そうして体を売ったり時間を売ったりして得た対価を、ルディは当然のように自分以外の者のために使ってしまうのだ。必要だと思えば路傍の他人にさえ。
 そういう人なのだとよく知っているからこそ、一番近い場所に仕えることをトワは他の誰にも譲らない。他の誰にも、自分以外には、この人を預けたくない、と思っていた。
 潮風に吹かれるルディは気分が良さそうだ、と横顔を注意深く見つめる。
 先ほどの寝起きに発せられた硬質な声色は、本当にこの主の喉から出たものだったのだろうか。
 底から不穏に光る刹那の赤褐色が、脳裏に焼き付いて離れない。
 目の前にいるルディがルディであることは間違いなく、彼が眠ってしまってからもずっと手を離さないで側にいたのだから本人以外では絶対にあり得ないはずなのに、あの一瞬だけ、まるで知らない別人のように感じた。この違和感を忘れないでおこうとトワは心に刻んだ。

   ◇◆◇


 砲撃と銃弾戦の真っ只中に突然放り込まれたような豪雨に襲われる船上で、船員たちが慌しく駆け回り怒号を交わしている。
 真っ黒い雲が帆先に触れんばかりに厚く垂れ込め、低く空気を震わせていた。
 ルディはトワに荷を纏めるように言いつけ、足早にナディーンの部屋を訪ねた。
「ルディか、どうした。……青褪めているな」
「お前それで本当に呪術師?」
「いきなりなんだ」
「ミクジン耳を持ってるくせに! 何も聞こえてないの?」
 顔が見えた瞬間ルディはナディーンに詰め寄って胸倉を掴んで怒鳴る。夕刻から降り始めた雨が、ただの雨でないことを肌身で感じ取っていた。
「雨遣らいのまじないをすぐにして!」
 名を呼ばせるだけの間も与えず捲し立て、ナディーンを押し退けたルディは迷わず寝台横に置かれている巾着の口を開けた。他人の持ち物だが、中身が何であるかはとうに知っている。
 何度となく共寝をしながら耳をそばだてていたのだ。
 この呪物に近付くために甘言を吐き、部屋に入り浸っていたといってもいい。
 最初はただ興味で近付いただけだったが、これの存在に気が付いてからは意図して近しい距離を求めた。ルディの目的を悟り、ナディーンは言葉を失う。
 目的がはっきりしたということは、すなわち。
「それから何を聞いた!」
 怒鳴るナディーンを制し、ルディは巾着から取り出した瓶に耳を寄せる。
 くすんで濁った古い瓶の中には切り落とされた小さな耳が入っていた。中を満たす黄ばんだ液体に浮かぶ耳がゆったりと揺れる。奇妙に緊迫していた。
「……船が、沈むって叫んでる」
 激しい雨音が一瞬遠ざかり、体を突き通すような鋭い爆発音が唐突に響く。船体が丸ごと跳ね上がったかのような大きな揺れにルディは転んで膝をつき、ナディーンを見上げた。
「ならば……雨遣らいのまじないが効く雨ではないな、もう」
「今の何?」
「雷だろう。ミクジン耳の声は絶対に現実を違えない。早く海に逃げる準備をしろ」
 稀少な呪物が壊れないようルディが反射で胸に抱えた瓶をひょいと取り上げ、ナディーンはあってないような荷を手早くまとめ、寝台の薄手の掛布でミクジン耳を包んだ。
 他の何を失い壊しても構わないが、これだけは絶対に欠損させてはならないといった厳重さだ。
「ルディ様! 帆柱が雷にやられました、倒れて燃え上がっています。甲板に落ちた雷で船腹にも穴が開いたようで沈むのも時間の問題です。逃げましょう、早く! 船から離れないと巻き込まれます!」
「ナディーン!」
「ミクジン耳だったんだな、目的は。悪いがこれだけは絶対に譲れない。じゃあな」
 外套を被ったナディーンが、ルディとトワのことなど一瞬で忘れ去ったかのように踵を返し駆け去っていく。
「ルディ様、お早く」
 今朝がたまでは雨が降るぞとだけ言っていた耳だった。
 悔しさに歯嚙みしながらトワに助け起こされ、船室をあとにする。
 廊下に出ると早くも煙が漂っており、二人は依然激しく打ち付ける雨の中に飛び出した。
「トワ、」
「わかっています」
「いやわかってない。お前、俺に何かあってもちゃんと生き延びてよね。これ命令だからね」
「……ルディ様」
「俺はこんな荒れた海は多分泳げないけど、お前を道連れに沈む気はない。……生きてね」
「諦めないでください」
「お前を心配して言ってるだけだ。大丈夫、諦めてなんかない。砂漠の神の気配はもう随分遠いけど……加護があるならどうにかなる。海でなんか死なない」
 先ほどの揺れでようやく危険を察知した乗客たちが混乱し騒ぎだすのを後目に、トワはさっさと救命艇を降ろしてそれに飛び乗り、激しく揺れる小舟が本船にぶつからないよう櫂で操りながら機を見計らって飛び降りてきたルディを抱きとめた。
 激しい雨が体を叩き、ずぶ濡れの外套が重たく纏わりつく。
 山のような砂丘が、幾つも連続して船底に滑り込んでくるような巨大な波に次々と襲われる中、トワは自身とルディの身体を船に結び付けた。
 浮かぶ物から離れなければ取り敢えずは沈まないはずだ。

 乗り込んだ小舟は操らなくともあっという間に潮流に揉まれ本船から離れた。
 空と海の境は雨で濁り、叩き付ける豪雨でも消えない激しい炎に巻かれる船は、ほどなく壁のように立ち塞がり覆い被さるように襲い掛かって来る大波に見えなくなっていった。

花酔ひの君〈秋〉/2 死人花

 真夏日の酷暑にも涼しい顔をして、冰は奥の間にある漆塗りの仏壇前に供物台を設けた。
 丁寧に誂えた盆飾りに野菜や果物を供え、花を生ける。今朝咲いたばかりの朝顔は瑞々しく、優美な蔓が伸びやかに卓に広がった。
 薄くやわらかい花弁はかすかに透け、大きさの割に主張はなく、その慎ましさは調えられた盆飾りによく馴染む。
 左右に飾ったぼんぼりの電飾に明かりを入れ、位牌のない空の仏前でそっと手を合わせる。
 ここには誰も、何も、明確な何かを祀ってはいないが、祈りの場所には違いない。
 神仏や先祖を祀らずとも、祈ることはできる。いつでも、本当は。
 場所すらなくても。
 この祈りが、何らかの供養となればいい。もう誰とも、何とも繋がることのできなくなったあわれな忘れ路のものたちが、視界の端に游ぐこの短い期間くらいは。
 冰の目には浮遊物が見えていた。半透明の、形も大きさも曖昧なそれらはくらげのようにふうわりと空間に漂い、供えたばかりの供物や供花に集まりくる。霊とも精とも呼べない何かたち。
 顔も表情もないそれらがどことなく心地良さげにしているのを眺め、ふふと笑った。
 
 日が昇るのが早い夏の間は、屋敷の主である冰より、雪片の方が早起きだ。
 身支度を調えると家中の扉という扉、窓という窓を開け放してまわり、管理を任された土間のお勝手に並ぶ竈に火を入れる。
 よく乾いた薪が燃え出した匂いがしてようやく一日が始まるのだと感じられた。
 朝食の下ごしらえが終わる頃合いになると、とんとん・とんとん、と裏戸を叩く音が転がり込んでくる。勝手口の板戸を開けても誰もおらず、そこには男一人で抱えるのに多少苦労する大きさの真菰の包みがどんと置かれている。中身は氷だ。
 何度目かの夏、慣れた手つきで抱えて部屋に運び込んだ。
 あちこち開け放った古い屋敷の中には豊かに風が走り、日光が射さない奥の間などは肌寒さを感じるくらいだ。古い家はよくできている。
 だが、お勝手の隣、主に食事に使う畳敷きの小さな居間は、水場を照らす光が直に射し込んでくる。朝はまだいいが、火を扱う場所のすぐ隣ということもあり、日中最も暑くなる部屋だ。
 真菰の包みを開けると空気の粒がひとつも入っておらず、硝子に見まがうほど美しい氷塊が姿をあらわした。木桶に据えて居間に置き、冷房代わりに使うのだ。じんわりと室温に溶けながら心地のよい冷気を放ってくれる。これで賄えなくなると、窓の外に日よけのすだれを垂らして涼をとる。
 氷を据えたら裏手にある庭の井戸から冷たい水を汲み上げ、軒先に撒いてまわる。
 ただ水を撒くだけのことが、日中の過ごしやすさにこれほど干渉してくるものかと数年前、雪片が初めての夏をこの屋敷で迎えた時はとても驚いた。
 冰の屋敷に空調機器のような気の利いたものは存在しないが、開け放して風を通し、少しばかりの工夫──打ち水や、置き氷といったものをするだけで充分涼しく過ごせるのだ
 人間社会の中に一人の人として混ざり込んでいた時には苦痛に感じていた食事も今は楽しい。
 冰の導きにただ従い、彼の生活に合わせているだけで、水が器に満ちるように心が満たされていく。
 表の掃き掃除をし、打ち水をして戻る朝の日課が終わる頃には、丁度火にかけた鍋の湯がぐらぐらと沸いている。湯飲みに一杯冷まして白湯にしておけば、墨染めの涼やかな絽の着物にきちんと袖を通した冰が、庭の木々や花々に水をやりに出る前に口にする。
 冰が庭に出ている間、雪片は朝食の準備をすっかり整える。
 だし巻き、焼き鮭、夏の葉物はお浸しにして、冷や奴にはおろし生姜をたっぷり乗せる。ちょびちょびと盛った箸休めにはぬか床から出したばかりのきゅうりと茄子、味噌汁の具は毎日あるものを適当に──今日は大根と刻み揚げを使い、更にお麩を加えて具だくさんにする。最後に羽釜炊きのぴかぴか白米の煮えばなを茶碗にふんわり盛る頃、冰が庭のひと仕事を終えて戻ってくる。
 居間には短い四つ足に精緻な彫刻が施された飴色の卓があり、向かい合わせに二人で食事をとるのに丁度いい。
 その日に仕事があれば一日の予定を確認し、何もなければ他愛のない話をする。
 昨日は仕事はなく、冰は屋敷の中で一番涼しく、直射日光も入らない奥の間に保管している花浸酒の壜の手入れをしながらラジオで甲子園野球の実況を聞いていた。
 キィン、と金属バットが硬球を捉える音に、なんとも鮮やかな夏を感じることができた。
 おやつ時には井戸で冷やしたもらい物のすいかに塩を振って食べ、夕刻になると素焼きの鉢で育てている朝顔の萎んだ花を取って世話をする。
 平成も終わろうというこの現代に、ひと昔ふた昔も前から取り残されたような古い様式を今も守り、それだけに丁寧な生活を営んでいた。
「頂きます」
 そっと手を合わせた冰がいつも通りまず味噌汁に口をつけるのを眺めてから、雪片も自分の箸をとる。
「今日はお昼を食べたら出掛けるよ。山に入るんだけど……」
「それは私が同行しても構わないものですか」
「ああ、来てくれると助かる」
 冰が作る、時季の盛り花を浸け込んだ花浸酒は、観賞して美しく、飲んで美味いと方々に喜ばれる品であった。その日その時最も美しく咲く花を選ぶため、数は沢山作らない。
 昼下がり。
 手拭いを首に巻き、麦わらのカンカン帽をかぶった冰と、動きやすい服に着替えた雪片とで屋敷を出た。舗装されていない砂地の道路の、陰の多い場所を選んで歩き、住宅街のすぐ傍まで伸びる山裾から森に踏み込む。
 冰は慣れた様子で木々の間を進み、途中ですいと獣道に逸れた。野草をわさわさとかき分けながら迷いなく歩いていく冰に雪片は黙ってついて行く。
 夏の眩しい太陽が木々の緑を輝かせていたのも束の間、あたりは霧に包まれた厳かな様子に変化した。湿気った空気に土の匂いが混じり、森というよりは樹海に近い様相が増していく。二人はいつの間にか人間が生きる現し世から離れ、あやかしの棲み処である幽り世の道に踏み込んでいた。
「何の花をお求めで?」
「咲いているといいけどねえ。時期なんだけど、時期じゃないんだ」
 問いかけに答える気のなさそうな返事が返ってくるのはいつものことと割り切り、雪片は時折かかとを滑らせて転びそうになる冰の背を支えてやった。
「やあ、お揃いで。墨染めの旦那」
 苔生した樹の向こう側から唐突にひょいと見知った顔が覗き、驚いた様子のない冰は返事のかわり、こくりと頷く。
 人好きのする笑みをにまりと刷くこの男は阿(あ)波(わ)座(ざ)といって、冰の古い友人だ。
 冰が作る花浸酒には阿波座に手配を頼んでいる硝子壜が欠かせない。
 花浸酒は花を摘んですぐ酒に浸けて作るが、屋敷から壜を持参した様子がなかったことから、初めから阿波座も合流する約束だったのだろう。
「やあ、雪片さん。息災で? ご一緒させて貰いますよ」
「阿波座、壜はある?」
「へえ、勿論持って来ましたよ。そうだ。冰さん、良さげなのが吊れてるのを来しなに見かけましたが案内しましょうか」
 阿波座の提案を断り、同行を増やして先へと進む。
 森は薄暗いが気味悪さはなく、それどころかどんどんと清浄な気が濃く満ちてゆくのがただびとの雪片にもわかった。りいりいと秋虫のような声が聞こえていた。心なしか空気も冷え込んでいる。
 冰の目的が何の花なのかわからない。時折振り返る阿波座がにやにや笑みかけて来るのが鬱陶しく、何が目の前にあらわれても驚かないでいようと雪片はなんとなく心に決めた。
 苔生す森の中を、どのくらい歩いただろう。「あった」と冰が唐突に声を上げる。
「ゆひら、おまえはあまり近付きすぎないように」
 はい、と返事をするより先に、それが視界に飛び込んできた。
 清浄な気が満ちる森の中にあってはいけないもの。どっしり根差した古木の枝に、黄色と黒のポリエステルロープが巻き付けられ、樹皮の苔が削げていた。
 立派なはずの樹に、剥げた表皮の下にあるピンク色の生肉が、空気に触れるだけでひりつくような痛々しさを感じる。
 ロープからだらりと下がるのは、首吊り死体だった。
「いい具合だ。莟みがある」
 清浄な気に一切混ざらない死臭と腐臭が鼻につき、内臓が一気に圧し出てきそうな突発的な吐き気がしたが、なんとか堪える。
 雪片は持参したタオルで鼻と口を覆い、最初からそれを目的にしていた二人が全く平気な様子で生乾きの死体に近付いていくのを見やった。
 冰は「莟みがある」と言ったが、下生えは野草ばかりで目につく花はひとつもない。
 風上を探して移った雪片は、自分には見えない何かを見ている二人の背を少し複雑な心境で眺めた。
「あっしは枯れさしの花を浸けたのが好きなんですが」
「あ、そうなの。ここにはないけど、あとで探してあげる」
 死体がぶら下がっている場所から少しばかり離れたところにしゃがみ込んだ冰が、すいと手を伸ばす。
 すぐ傍でリュックを腹側に抱え、中の荷を漁っていた阿波座の手からぽんと硝子壜が渡った。馴れた様子が、少し悔しい。
 それは筒状の不透明な黒い硝子壜で、直径は十センチほど。窄まった形の短い口にはアルミのねじ式キャップが付いている。
 壜口を開け、長いピンセットを中に挿すのが冰の動作でわかったが、やはり雪片の目には花も莟みも全く見えなかった。
「ゆひら、荷物の中のお酒を渡してくれるかな」
 花浸酒に使う酒と、使い込まれたブリキの漏斗を、傍まで取りに来た阿波座に手渡す。
 冰が受け取った酒を注ぎ、封をした黒い硝子壜は再度阿波座の手を介して雪片のリュックに預け入れられた。一行は次の場所を求める。
 死体のあるところを知っている足取りで迷いなく無い道を歩いて行く冰の正体が何者なのか知らない。
 ただびとである雪片の目にも見えるほど、その姿をはっきりあらわす力を持つあやかしの大抵が恭しく頭を垂れ、膝をつく姿を見るにつけ、幽り世のそれなり高い地位にあるものだろうとは察するけれど。
 日が暮れたのか、にわかにあたりが暗くなり、阿波座は火を点けた蝋燭を提灯に入れた。
 人の頭くらいの大きさの丸い提灯は適当に拾った枝の先にぶら下げられ、先頭をゆく冰の背中を照らしている。
「ああ、遠かったな。おまえが喜びそうな花がやっとあった。すごい、満開だよ」
 そのあたりは木々の間隔がきちんと手入れのされた里山のごとく広く、膝近くまで伸びた野草に埋まっていた。踏み込んだ土はふやふやとしてやわらかく沈み、清冽な空気に満ちていた。
 冰が分け入っていく周辺に死体はひとつもない。しかし、この一帯がこれまで歩いてきたどこよりも純粋に清らかな場所であろうことは雪片にもわかる。
 先ほどと同じように死体がぶら下がっているのが見えないのは暗さのせいかと雪片は考えたが、わずかな死臭もしないため、注意深く周りを見渡した。
 そろそろと慎重に闇に溶ける墨染めの背を追いかけ、傍に追いつく。
 しゃがみ込んだ冰に触れられるほど近寄ると、からっぽになった一升瓶を差し出された。
 今作られたばかりの、最後の花浸酒は阿波座の手に渡る。
「ここが一番濃いィすね。流石に臭います……見えませんけど」
「うん、おあつらえ向き。集まっちゃうんだろうね。見たい?」
「いやァ、結構です。うっかり取り込まれちゃあ帰途が不安ですからね」
「ゆひら、おいで。見えるように手を貸してあげる」
 薄い手袋を取った手を差し出され、華奢な指先をぎゅっと握る。
 触れ合った皮膚から冰の冷たい霊気が流れ込んでくるのがわかった。体温が下がり、凍えるように感覚が鈍くなっていく。それが肘、肩、首とじわじわ上がって来て目に達したと思った瞬間、雪片の視界は蒼い燐光でいっぱいになった。
「っ、これは……」
 まるい水たまり──あるいは小さな泉の中に立っているようだった。
 野草が生えているだけだった足元まで隙間なく、蒼い光をこうこうと放つ花が咲いている。
 さああと小川の流れるような音をさせて花が揺れ、揺れるほどに光の粒子が風に舞い、木々の隙間を抜けていった。
 これまでに見たことも、想像したこともない霊妙な青の花畑。
 美しいといった感覚はなく、目から飛び込んでくる景色が脳に映し出されるほどに、雪片の胸に満ちてゆくのは何故だか途方もない寂しさだった。
 軋む音が聞こえそうな締め付けに喉がぎゅっと絞られ、耳の後ろのやわらかい部分がじくりと痛んだ。知らず堪えて下唇を咬む。
 握った手が引き抜かれたことにも気付かないほど目の前の光景に圧倒されていた。
 波濤のように激しく打ち寄せる寂しさにわけもなく涙が溢れ、頬を焼くような滴の熱さで我に返る。慌てて濡れた頬を拭ったが、先の二人は帰り支度をしていたので気付かれずに済んだようだ。
「さ、目的は果たした。帰ろう」
 視界を満たした蒼く光る花の海はじんわりと闇に滲み、やがて見えなくなった。
 皮膚を介して流し込まれた冰の霊気が尽きたのだろう。
 行きは随分長く、途方もなく感じたというのに帰りはあっという間で、途中で阿波座を見送ったあとは十分と歩かず二人は屋敷に戻った。
 簡単なもので晩御飯を済ませたのち、月明かりに照らされる縁側で冷酒を傾ける冰に勧められるまま、今日作ったばかりの花浸酒の蓋を開け、中を覗いて見る。
 海の底から遠い水面を見上げているような──青い銀河系を眺めているような景色が広がっていた。 切ない光。花の姿は暗さに溶け、見るほどに寂しさに襲われる。
「それはね、孤独と寂しさの色だよ。商用にするために人間の死気を吸った死人花を採るのはあまり好まれることではないけれど……人気があるんだ。孤独も、寂しさも、哀しささえ、わたしたちあやかしは殆ど持たないから」
 堪えきれない涙が流れるせいで焼けるように熱い雪片の頬を、冷たい冰の指がそっと拭った。
「だからその心、大事になさいね」
 時には煩わしささえ感じるのだろう生身の感情も、冰にしてみれば眩しい宝玉に等しい。
 それは美しく、尊く、希有で、決して手の届かないもの。
 自身は永遠に持つことのできない生命の熱。
 雪片の頬に流れた涙に触れた指先が、焼け爛れるように痺れていた。

花酔ひの君〈夏〉/4 訣別の夏

 ざあっと強い風が吹き付けた瞬間、冰は今日なのかと気がついてしまった。
 今日か、そうか、と草むしりをしていた手を止めて立ち、青々とした清涼な夏の空気の中に暫し佇む。
 蒸し暑い夏がいよいよ始まろうという、朝方に少しだけ気紛れな雨が降った日だった。
 地面が濡れて乾くまでの間なら、草むしりがやりやすいのだ。鉤手の道具は表面を掘り返され雑草が取り払われた土の上に放置された。
 
「ゆひら」
 早朝、夏になると毎日届く、菰に包まれた氷塊を木の盥にあけたところだった。朝食の用意がすっかり済む頃ようやく庭から戻ってくる冰が、いつもより随分早くお勝手に顔を出す。
「はい」
「阿波座のところにお使いに行って欲しいんだけど、いいかな?」
「すぐですか?」
「うん、悪いけど」
 いつも通りの行動をわざわざ乱して顔を出してきたのだ、そうでなければ冰の頼みごとはいつも朝食を食べながら取り出される。
 わかりましたと答え、シンプルなエプロンを外してたたむ。
 植物を編んだ小さなバッグに新聞紙で包んだ何かを入れたものと、茶封筒の手紙を預かった。
 いつもなら車で向かうところだが、まだ日も昇りきらないこの時間なら今日は歩きで行くかと思い立ち、タオルとストローハットを装備した。
 履いたまま水にも入れるサンダルに足を突っ込み、ボトムの裾を何度か折り上げて、がらがらと音の鳴る古い木戸を引き開けた。戸を開けたまま、外に麻の暖簾を掛けていると、冰が見送りについて出てくる。
「では、行ってまいります」
「はい。お願いね。これを持ってお行き。暑くなるだろうから」
 そう言って冰は懐から扇子を取り出した。
 職人が一枚一枚透かし模様を刻み、絹糸で繋いだ上等の白檀扇子は鮮やかな紅染めの扇子入れに差し込まれている。扇子入れにはぽつりと白い朝顔紋が刺繍されていた。香木からほんのりと立ち上る香りは優しく、心地がいい。
「どうぞ、夏の贈り物だよ」
「この扇子入れ、この間の……?」
「うん、烏梅を使って染めた紅染め。色見本を作るのに幾つか濃度を変えて染めた布の余剰を分けて貰ったんだ」
「きれいです、とても……ありがとうございます」
「扇いでごらん」
 言われた通り、扇子を開いて扇いでみる。はたはたと扇ぐたびに白檀が優しく上品に香り、暑さを忘れて思わず香りの海に浸るように目を閉じる。気持ちがいい。
「よい香りでしょう? 気に入ってくれたみたいで良かった」
「あの……だけどこれ、高価な物なんでしょう? 私が頂いていいものか……」
「ものの値段など瑣末な事だよ。わたしが贈りたかったんだ。何も言わずに受け取って」
 そう言って贈られた物が幾つかあった。
 有り体に言えば一生物の道具類だ。それらは少しずつ数を増やしながらきちんと雪片の生活の中に組み込まれ、毎年使うのが楽しみになるような物ばかりだった。この扇子も、毎年夏になるこの頃取り出して来ては、ほのかに漂う香りを嗅いでこの時のことを思い出すのだろう。
 夏が終われば虫に食われないようきちんとしまい込んで、また来年を待つ。そういう暮らしを、雪片は冰に教わった。
「ありがとうございます。では今度こそ、行って参ります」 
 慣れ親しんだ門を出て電信柱二本分を歩いたとき、雪片はふと振り返ってみた。いつもは車だからすぐに角を曲がってしまって見ることのない景色だと思い立ったのだ。
 門の下、濃い陰になったところで墨染めの涼やかな紗の長着姿の冰が見送ってくれていた。振り返った雪片に気がついて手を振ってくれる。
 華奢な白魚のような手はひらひらと、はっきりとは見えないがいつも通りの淡い微笑みと共に向けられ、応えてぺこりと軽く頭を下げて会釈する。手を振り返すというのは、少しばかり気恥ずかしくて出来そうになかった。
 角を曲がって道を行く。
 まだ早い時間だというのに、真っ黒なアスファルトには朝方の雨のせいだろう、日射しを受けた地面にゆらゆらと陽炎が立っている。車に乗ってすぐに走り抜けてしまう道のりでは決して見ることのできない、気付けない景色だなと、夏らしさを感じながらゆっくりと歩いた。
 決まった時間に起き、決められた時間に出社して働き、とっぷりと日が暮れてから帰る、そんな生活をしていた頃には夏と聞くだけで暑さに嫌気がさしていたものだが、冰と住むようになってからは夏が持つ独特な美しさに気付くことが出来た。
 暑いのは今も辛いが、コンクリートジャングルで感じていたような息苦しさや鬱陶しさというものは無く、どこからか吹き付ける風の心地よさに夏なんだなと嬉しくなるほどだ。環境が変われば、こんなにも心持ちそのものが変化するのかと驚く。
 真夏の太陽が地面に生み出す幻影、幾ら追いかけても手にすることのできない逃げ水を見たときの驚きと感動といったら。思い出すだけで胸が躍る。
 夏のまばゆさには、特別なものがある。雪片は改めてそう思った。
 青々と繁った草むらがざわざわと揺れる音、広い空にもこもこと立つ白い雲の面白い形。たまに見る花の色鮮やかさは他の季節のものと違って力強く、灼熱の中に咲く花の頼もしさはどこか同時に儚さも感じる。咲いてはすぐに萎れてしまう花期の短さゆえだろうか。
 
 遠いようで近い、どこかのタイミングでふと幽り世に入り込み、またすぐ現し世に出てしまう、阿波座が構える店への道のり。
 店内が全部丸見えになるガラス戸は広く開け放たれていた。店先には打ち水の跡が黒々としている。何軒か隣の玄関先に、同様に水を撒く人の姿があり、ぱしゃりと地面を叩く水の音さえ何か特別なようで、涼やかな夏を演出していた。
 コンクリート敷きの広い土間には名前も知らない道具類が雑多に置かれ、その一角には冰の手元に納品する硝子壜を運ぶために使われる笈も静かに佇んでいる。不思議な空気がある店に声を掛けながら踏み込むと、ちりんとどこかで風鈴が鳴った。
「へいへーい。どなたで……おっ、雪片さん。おはようございます。何用ですかい?」
「おはようございます、阿波座さん。これをお届けに来ました」
「はて、何でやしょ」
 小さなバッグを受け取って中身を改め、がさがさと紙を開く。
 果たして中身は、切り子で青海波紋様を刻んだグラスであった。本来なら厳重に割れ対策をして桐箱に入れて運んでもいいような逸品であることをひと目見て悟る。落とさないよう気を付けて底を返して見ると、欲しいと思っても到底手に入れることの出来ない切り子作家の名が刻み込まれ、そのみぞは金で彩色されていた。
 流石冰さんだ、と思い至りながら、いつだったか、随分前の頼まれごとを思い出す。
 すらりと立っている雪片の存在はしっかりしている。朝顔が夏の暑さの中涼やかに咲いているような気配だ。冰の屋敷の預かりとなった頃の、幽鬼のような、現代社会に生きる人間特有の生きているくせに死んでいるようなおどろしさは影も形もなくなっていた。
「いい男になりやしたねえ、雪片さん」
「はい? 急に何ですか」
「いや思ったことがつい口に出ちまう性分でして。ちょっと待っててくださいよ、そこの長椅子にでもお座りなすって」
 雪片は冰に頼まれてもう何度となくこの店を訪れている。よく顔を合わせる阿波座に自然と気を許し、互いに特に用事が無ければ茶を啜る仲にもなっていた。
 壁面に大きな箪笥と作り付けの棚が並ぶ畳の小上がりに近い場所。ここに置かれた家財は時折入れ替わるが、概ねいつでも応接間のように椅子とテーブルが揃っている。
 阿波座は取り扱っている商品を一時的に置いて使っているのだと言っていた。現し世でいう古物商ってやつです、とも。
 飴色をした木製の長椅子と、一人掛けの椅子、テーブルの三つでひと揃い。一人ではぴくりとも動かせないような重厚感のある長椅子は、箱に背もたれと肘置きを付けたようなベンチのような形をしており、面という面に彫刻が施されていた。
 模様には瑞兆とされる龍や鳳凰といった生物をメインに据え、様々な植物が賑やかに配されている。背もたれと肘置きは立体的な透かし彫りで、優美な唐草が今にも蔓を伸ばして動きそうな躍動感で広がっていた。美しい品だ、とひとしきり眺めてから傷を付けるような物が無いかポケットを叩いて確認し、出るときに貰った扇子を引き抜いてから気を付けて座った。
 そこに丁度良く、小さな丸盆を手にした阿波座が戻ってくる。
「凄い椅子ですね」
「でしょう。大陸から渡ってきたもんですよ。古狸の爺様が孫の嫁入りに家を贈ったとかで、その返礼にお孫さんの方から爺様好みの品をと頼まれやしてね。いや人間の技も大したもんだと思わされますね、こんな逸品を見つけると」
「物作りって、やっぱり大変なんでしょうね」
「様々なんじゃないですかね。大変だ、嫌だ、と思って携わる職人はいないでしょう……あっしはこういう逸品をね、ひとときの輝きって呼んでんですよ。秘密ですけど」
「ひとときの……輝き?」
「ええ。幽り世の者は人間に比較するとかなり長命ですから、その分技術を磨く時間に余裕があって、歴の長い職人も数多存在するんです。それこそ職人歴百何十年、なんて人間ではありえないでしょう?」
「ああ、そういう。なるほど……」
 幽り世に生きるあやかしたちからすると短命の代名詞ともなる人間が、その短い生の中で作り上げた、職人歴百年越えの者に比肩するほどの逸品。それを指してひとときの輝きというのだろう。雪片は納得して、夏のまばゆさのようなものなのだろうなと自分なりに理解した。
 果たして自分は、何を成すことができるのだろうかとふと考えて黙り込む。沈黙の間に、阿波座はL字に配置された一人掛けの椅子に腰を下ろし、テーブルに盆を置いた。
 先ほど受け取った青海波紋様の切り子グラスと、口を付け慣れた自分のグラス。それから花一輪封じ込められた小ぶりな花浸酒の壜。よく冷やされていたせいで、早くも硝子の表面は曇り、中の花が何なのかはわからない。紫色の花のようだった。
「花浸酒ですか? 冰さんの?」
「ええ。夏のこんな時間から冷やしたのを頂くの、最高でやしょ? ささ、一杯どうぞ」
「さっき私が持ってきたグラスですよね、いいんですか? 使っちゃって」
「いいんすよ、使うためのグラスです。別にあっしの客に流すためのもんじゃないですし。涼やかで……綺麗で、今日みたいな暑くなりそうな日にぴったりだ。この酒を飲むのにこれ以上相応しいグラスはありません。何なら電話しやしょうか? 冰さんに。使っていいかって」
「え、いや、そこまでしなくても別に構いませんけど」
「まあじゃあ是非相伴してくれやせんかね。朝からひと仕事やっつけたところなんで、労ってくださいよお」
 そんな風に茶目っ気たっぷりに話す阿波座にくすりと笑い、雪片はグラスを手に持った。不思議としっくりと馴染む。
「良い道具っていうのはね、雪片さん」
 きゅぽんとコルク栓を抜きながら、阿波座の声色が柔らかいものになる。
 いつだったか、もう遠い昔のように感じるが、こんな風に祖父が声色を柔らかくして色々と教えてくれたことがあったなと雪片は唐突に思い出した。
「最初ッから手に馴染むんですよ。まるで何十年使ってる物みたいに。どうですか?」
「わかります……こういうのが、そうなんですね」
 わかって貰えて嬉しい、と言うように阿波座の笑みが益々深くなった。
 飾り気はないがやけにきらきらとして見える雪片のグラスに花浸酒を注ぎ、自分の分を手酌して壜を置き、杯をそうっと差し出す。
「乾杯」
「乾杯! ……雪片さんのこれからに」
 キン、と音をさせて軽く合わせたグラスに口を付けた頃合いに飛び出してきた己の名に、雪片は少なからず驚いた。何だろう、唐突に。唐突なことばかりだ。こんな人物だったろうか、とふと疑問に思ったものの、記憶にある阿波座はいつもどこかしら唐突だった。声を掛けてくるときも、姿を現すときも。
「これからにって何ですか?」
「へっへへ。その青海波の模様の意味、何だか知ってます?」
「いえ……。模様に意味なんてあるんですか?」
「ええ。無限に広がる穏やかな波を表すその模様にゃあ、未来永劫続く幸福を願う意味があるんでさ。あと平穏とかって意味もありやしたかね。だから目出度い時に使われるんです」
 ぐーっとグラスを呷り、一杯目を干した阿波座の声がかすかに揺れた。
「雪片さん、すいやせん」
「阿波座さん……?」
「もうさよならです」
「えっ……え? な、何が」
 さよなら。別れの文句に動揺した雪片の手からグラスが滑り落ちたのをはっしと掴み、阿波座は涙の滲む目をさっと拭って笑みを浮かべた。
「飲んで下さい」
 その声には、強制力があった。動揺に固くなった雪片の身体はまるでそうせねばならないと思い込んだように、戸惑う意思に反して阿波座の手からグラスを取り上げ、口をつけた。
 すっきりとした甘みのある日本酒が清涼な温度のまま腹に落ちていく感覚がやけに精細に感じられた。

   ∴ ∴ ∴ 
 
 ざわざわとした人混みの喧騒の最中に立っていた。
 慣れ親しんだとは思いたくもない、埃っぽい空気が満ちている。灰色のビルの群れ、それぞれに主張の強い鮮やかな看板が戦争でもするがごとく喧を競って所狭しと並んだすき間から、ようやく白く濁った青空がちいさく見える。
 雪片は茫然と立っていた。今何時だ、と癖のように腕時計を見る。汗ばんだ手首にぴたりと這う時計の文字盤は、昼下がりを示す時間を示していた。もうこんな時間か、と思いながら忙しなく歩き出す。
 地下に潜る階段を足早にたかたかと降り、冷房の効き過ぎた電車に乗り込む。
 かいた汗が一気に引いていくがそれでもまだ暑いと、ポケットから取り出した扇子ではたはたと首もとを扇いだ。
 上等な白檀で作られた見るからに美しい扇子から扇ぎ出される小さな風はよい香りを含んでいて、近くに立っていた女子高生がその香りにふと顔を上げた。
「香水でも付けてるんですか? その扇子」
 鈴の転がるような可愛らしい声が、思わずといったように転がり出てくる。驚きながら、少し考えて、雪片は答える。
「いや、白檀という香木で作られているからだよ」
「いい匂いですね。ビャクダン……覚えておきます。ありがとうございます」
 金属の擦れ合うブレーキ音が遠くに聞こえ、電車が減速する。むっとして少し不快な地下鉄の空気の中へ、ガーッと開いた扉から女子高生は軽やかに降りて行った。
 閉まる扉、走り出す電車。
 急に、雪片はどこに向かっているのだろう、と強く疑問を抱いた。空いている席にふらふらと歩み寄って座り込み、重たいビジネスバッグの中身を漁る。
 見慣れた書類の束、財布とスマートフォン。いつも通りの、毎日持ち歩いている荷物だ。それなのに何故唐突にこんな、頼りなく心細い気持ちになっているんだろう。
 厚みのある物は入らない、設計を間違えているのではないかと思う外ポケットを漁るとしわくちゃに折れた紅色の扇子入れが出てきた。自分の稼ぎからは到底買える質の物ではない白檀の扇子を入れるための、少々派手すぎる色の扇子入れ。取り出してシワを伸ばす。ワンポイントの白い花の刺繍は夏らしい朝顔だ。
 会社の最寄り駅に近付くにつれ人が減っていく車内で、ぽろりとこぼれ出す涙を止める術は、雪片にはなかった。
 何かが酷く懐かしいというのに、記憶がない。
 たった一週間ほどの失踪は有給を消費することで免れたが、その間何をしてどこにいたのか全く不明だった。
 同僚に勧められて受けた御祓いの席で話す機会のあった老いた神職は、所謂神隠しだね、帰って来れて良かったね、と言ってはくれたが、そうだろうか。
 一週間もの期間の記憶が全く無いことで不安に駆られることはなかったが、思い出せないこの期間の中に、きらきらと光る、決して忘れてはいけないものがあるような気がしてならなかった。どんなに探しても、すっかり無くしてしまったものは思い出せない。
 今確かに生きてここに居るのだから、その空白の一週間もどこかに必ず己は存在していたはずなのだ。だのに、それを思い出せない。憶えていない。全く。
 まるで人生のうちの一週間を誰かに奪われてしまったような感覚だった。無かったことにされてしまった。たったの一週間、されど一週間。
 思い出したかった。何故だか強くそう思った。大事に抱えて生きていたかった。例え道が分かれても。……分かれても? 何と?
 引っかかりがあっても、答えを見つけ出せるほど気にしていられない。答えを求めて探すほどに、問いかけそのものが遠ざかっていってしまって忘れてしまうのだ。どうにもできない不思議な力が働いているみたいだった。
 いい年をした男が肩を震わせ、地下鉄で泣いている姿はさぞかし異様で滑稽なことだろう。薄手のハンカチに顔を押し付け、よろよろして頼りない心を叱咤する。
 電子化されて届く車内アナウンスが、社の最寄り駅の名を伝える。到着まであとふた駅しかなかった。

   ∴ ∴ ∴
  
「なんだか寂しくなっちまいやしたねえ」
「そう?」
 カナカナカナとひぐらしの鳴く庭が夕日に燃えるのを眺めながら、阿波座はあの日の残りの酒を呷っていた。今日の相伴は冰だ。
 茫然自失の状態でふらふらと出て行く男の後ろ姿を見送ったのは、今から数えて何度昔の夏だったろう? つい最近、外置きの冷蔵庫からあの時の酒を発見したので持ってきた。
 あの日男が冰から預かって持ってきた青海波のグラスは、今は冰の手の中にある。あるが、あの日と違ってそのグラスには、濃い金色の線が硝子のボディに深々と何本も走っていた。
 男が酒を干した後落として割れたグラスは、男がふらりと店を出て行った後に訪ねて来た冰が丁寧に拾った。欠片のひとつも余さずに。
 色付きの薄玻璃に切り子を施すことで紋様を描き出したグラスはさらに薄く、粉々とまではいかないが酷い姿に砕け散っていた。それを元の形に復元するのは本来ならば不可能だろう。
 しかし、人間には不可能でも、人間の寿命の何倍もの時間を経歴とするあやかしの職人ならそれすら楽しいと言って仕事を請け負ってくれた。
 見事に形を取り戻したグラスは少々痛々しくはあるが、夕日を受けてきらきらと輝く金継ぎの跡は破損から生き延びた勲章のようでもあり、美しい。
 寂しさなどわずかにも感じてもいなさそうな冰は、平然と酒を飲んでいる。何年も寝かされた酒はほんの少し花の色が移り、得も言われぬ美しい紫色に変化していた。
「冰さんとは長い付き合いになりやすけど」
「うん」
「竜胆の花浸酒は初めてじゃないですか?」
「そうだね、たったの一本だけ。これだけだよ。……後にも先にも」
 そうだろう、と阿波座は思う。
 冰が、時止めと呼ばれる不死のあやかしが、触れ合えるほど身近に人間を置くなど本来あってはならない。その圧倒的な力の大きさに、人間などという脆弱で矮小な存在はいとも簡単に歪み、へちゃげて潰れてしまうのがオチなのだ。
 強い力は魅力でもあるが、当然他への影響力も強くなる。人間相手ならなおさらだ。
 たったの一瞬、わずかな期間であったにせよ、人間の男がこの冰の傍で何年も暮らしていたなんて、今思うと嘘みたいな話だった。
 それはそれは細心の注意を払い、強大な力が悪影響を及ぼさないよう抑えていたに違いない。
 仕事柄、花言葉なんていう乙女チックなものにも通じている阿波座は、竜胆の花に纏わる花言葉を胸の中に思い浮かべ、それは大事に大事に撫でてやった。
 自分たちは人間とは異なる時間軸に生きている。今頃はもう死んでしまっているのかもしれない。人間の時間はあまりにも早く、あっという間に過ぎ去っていく。まるで流星のごとく。
 過ぎ去ったものをずっとは憶えていられない。それがどんなにか懐かしく、愛おしく、大事なものでも。永遠性を身の裡に持たないからこそ、冰のような時止めは不死に至るのだ。
 そこそこ親しくしたからとて、阿波座ですら、別れを経た小さな存在をいつまでも懐かしんでいられる性分ではなかった。
 人間の思う死の重さは、あやかしである自分たちには全くわからない。懐かしんで泣くような感傷そのものが、異なる時間軸や価値観で生き長らえる自分たちには無いのかもしれなかった。あったにせよ刹那のもので、重みもなくさやかな風にあっという間に浚われて消えていく程度のものだ。
 それに、時止めの特別な霊気が濃く溶かし込まれた酒を飲んで、幽り世の記憶は吹き飛んでしまっただろう。そういう効果を持つものが、幽り世にはいくつもある。
 もともと視える人間が幽り世やそこに生きるあやかしなどについて憶えているのは構わない。視える人間にとってはそれすらも世界の一部であるからだ。しかし、かつてこの屋敷に冰と暮らした人間の男はそうではない。そうではないくせに共に暮らしたから、記憶を消し去る薬酒で以て別れを経た方がよいだろうと思ったからそうした。
 幽り世の記憶を持つままに現し世に戻っても、良いことはお互いにない。人間にとってはまるで夢幻のごとき不可思議に満ち溢れた世界のことを話しても、人間世界では気が触れたと思われるだけであろうし、その話を信じた者が万が一幽り世に縁があった時、幽り世に居る者が被るのは迷惑だけだ。或いは、迷い込んだ人間は食われて消えるだけ。
 何故あの男をわざわざ傍に置いて庇護し、あちこち連れ歩いてやったのかを冰に問いかける者はなかった。日頃から親しくしている阿波座ですらそうだ。
 何故ならそれほど、冰にとってあの男と過ごしたひと時が何かしら特別なものであったとわかるからだ。未来永劫の幸福と平穏を祈ったグラスで別れの酒を飲ませた。
 そのグラスを継いで元通りの形に直してまだ持っている。それが意味するところを想像できないほどの馬鹿ではない。言葉にして興味本位に問いかけるなど無粋の極みでもあった。
 永く良い関係でいるためには、ほどよい距離は保たねばならない。
「夏が、終わりますねえ……」
 夕日が沈み、薄闇の帳が降りかける豊かな庭を眺めながらしみじみと呟く。早くも秋の墨染めの衣に袖を通した冰が、春を代表するあわ色の眸を柔和に細めてやんわりと笑って応えた。

境のない身体(BL)/2 おもみの意味

 ふ・と意識が浮上する。
 眠りの深淵から醒めるまでの、
 この一瞬の飛翔はいとしい。

 空気にとけてしまうような、死んでしまったあとのような、ふわふわと漂うような、そんなふうに意識をどこかまで手離し、大きな《何か》に同化していた。
 全なる何かから、ちいさな肉のいきものに、縮んでしまう。
 この狭さに押し込められる息苦しい窮屈さはきっと、爆発して滅んだ星が収縮し、握れるほどちいさなひとかたまりになるのと似ていると思う。
 肉体といういれものに意識が戻ると、途端に自分をなまなましく感じた。
 重たいこの肉のころもが、この重みに耐えることが生命としてうまれおちた責任で、この責任の上にだけ、みじかな死への旅路があるはずだった。人ならば。
 生命というふしぎが、いかな恵みの結実なのか真理はしらない。
 だけど、重みあるなまなましさは、ただただ、たったひとつのものでしかいられないということを、かなしいほど実感させる。

 ゆっくりと、呼吸をひとつ吐く。ふたつ吐き、みっつ吐いた。
 ぬるむ肉体の重みに辟易する。
 まだ暗い部屋の空気は冬のつめたさだった。

 高層ビルの屋上に構えたこの家では、季節の温度をどこより早く感じられる。暑さも寒さも。
 朝方目覚めた時のこの温度で、今がいつごろの季節であるかを肌身で感じるのが好きだ。
 随分長く、ここに棲んでいる。
 バルコニーからの景色も塗り替えたように変わるくらいだ。実際どのくらいの時間が過ぎ去っていったのかもうわからない。
 暦を見て一日一日を数えることに欠片ほどの意味も見いだせなくなって久しい。
 それでも、肌触りのよいお気に入りの毛布にくるまって穏やかに眠るのはとても心地よく、温かいから、それで充分だった。皮膚をなでるやわらかな起毛、眠る前にひと吹きする白い花の薫り。このささやかな幸せ。
 そんな幸福を抱き締めて眠るため、どれほど外気が冷えようと、殆どの衣服を脱ぎ去ってもぐり込むのだ。
 溺れをおそれぬ、暖かな、うみ。深く深く沈んで全てを手放して。

 まだ朝は遠いが、それでも夜は更けて随分経っている気がした。
 窓の外には絶えない明るみの気配があり、カーテンの向こうには今も色とりどりのネオンが眩しいほどまたたく新宿の街が広がっているんだろう。
 いつからかこの街は、眠りをわすれてしまった。
 暗闇を怖れ、光で腹をいっぱいにして。

 地上に散る星、人工光がひどく嫌いになった。
 最初こそ数が増え色彩を増やすそれらを面白く見ていたものだけれど、数は絶えず増え続け、今や本当の星が片手で数えるほどしか見えない。地面の上に星空を落とし燃やしているみたいだ。
 随分とごみごみして雑多な場所になった。
 何でもあって何もかもない。豊かなようで空っぽの、あぶくの花のようなユニークな街ではあるけれど。
 美醜様々の欲望や金や物が、あまた渦巻き右へ左へと忙しなく泳ぎまわり、変化し続ける。昨日までと今日からの街はきっとどこかが変わっていて、一年二年と経つうちに過去を塗り替え全て忘れていく。

 ふたたび眠る気にはなれないなと思い、何か飲もうと身を起こそうとして、ようやくベッドに眠っているのが自分一人でなかったことに気が付いた。
 背中側から腹のあたりへがっちりと腕がまわされ、手を繋がれ、指先が絡んでいる。この腕を、手を、背にぴったりとくっついた別の肉体を、感じられなくなるほど同じ温度を共有していた。
 魂がひとつ収まるだけの肉のころもが随分重たい、と思ったのはこの半身のせいだったのかと納得すると、先ほどまであれほど嫌気のさしていた重みが、今度はいとしい。手の甲にふくりと浮きでた血管をふにふに押してみたりする。
 現金な、とあきれながら、しかし自分はこの半身がいてこそ生身であることを謳歌し、それなりに人らしく、心を感じ取って生きてこれたのだから、いいのだ、と。誰にともなく言い訳をする。
 自分に向けて一心に愛をするこの男がいてこそ、俺は自分にもきちんと人並みの心があることを自覚できるようになる……。

 すっかりもとからひとつであったもののように同じ体温を持つと、自分という輪郭を超えたところまで色々がわかるような気がする。
 感覚が拡張し、鋭くなるようだった。
 目に見えないひとつの心臓を、首のうしろのあたりで共有する、穏やかな熱。
 抱き締められひとつにとけた肉の器の心地よさと多幸感に、皮膚の内側にぞわぞわと木の根でも伸びてゆくような気がして肌がそわと粟立つ。
 ぴったり触れ合った皮膚に境はなくなり、きっとその部分からふたつは同化し血管がつながって、神経が共通し、どくどくと同じひとつの生命を鼓動し、体のすみずみにまでいのちがかよっていくのだ。
 別々のものとして生まれたことを忘れるほど、今とけあってとけあってひとつだった。
 これが幸福の窮みなのだろうとじんわり自覚する。自覚すると、途端にそういった相手がいて、であえたこと、長い時間を共に過ごしてきたことのすべてが幸運のかさなりなのだと理解する。
 理解したら今度は急に嬉しくなって、(もう何十何百と同じことを繰り返すのに、)思わずふふっと笑い声がもれた。
 その拍子にひく・と背中がふるえ、肉がはがれ、熱い吐息がうなじにかかった。ああ、分離してしまう。
「ごめん、起こしちゃったね」
「はり……まだ早いよ、時間……」
「寝ててよ。俺は起きるけど」
「いやだ……」
 半分眠ったままのぼんやり掠れた低い声が、耳のすぐ後ろで鼓膜を震わす。無防備なだけに性質の悪い声が、腹の底にずしりと入ってくる。
 この声を聞くと背筋にぴりぴりと細い電流が走り、喉の内側がむずがゆくなる気がする。
 肺の中に薄氷を刺し込んだようにつめたくも、凍える指先で触れるぬるま湯の熱さのようにも思える温度がある。
 つるりとした蛇を飲み込むような苦しさにも似るこの声には、細い喉を無理やりに拡げながら、犯すように侵入ってくる本能の強さがあった。
 身体にまわった腕の拘束が一層強くなり、はがれた背中がもう一度ひとつにもどろうとしてぎゅうぎゅうとくっついてくる。
 けれど、一度はがれた身体は、もう簡単に同じ温度には戻らない。
 ひとつになるのには、ゆるやかにとけあってゆく長い時間が必要だ。それなのに終りは一瞬で、あまりにも切ないことだと思った。だから今という一瞬にいとおしさを感じるのかもしれないけれど。
 朝はまだ少し先だが、ひとつだったからだはもう分かたれた。共有したひとつの心臓はふたつに、皮膚は倍に増え、自我もそれぞれに独立して名前を取り戻す。
 このまままた時間をかけてとけあってしまうのも悪くはないけれど。
 何度お互いの中にとけ込んで幸福を欲しいだけ貪っても、決して物足りるということはないのだ。
 これはきっとずっとこのまま。今までがそうであったように。
 依存とは違う。ただひたすら、そういったしくみでしか生きられない生き物だった。
「琉嗣……」
 あまやかな拘束の中でくるりと寝返る。
 名を呼び、その顎先に口付けをすると、仕方がないなあといったように拘束がほどけた。
 永遠を信じるには少しだけ、たりない。だけど半永久くらいなら覚悟ができる。
 やさしい檻から抜け出し、あたたかな海から滑り出た。冷たいフローリングがつま先から体温を奪う。
 このちいさな海に眠る半身はまだずっと、朝がきても昼がきてもゆるりと眠っているといいと思う。
 ねむりの世界はうつくしい。
「……あいをしてね、」
 布団をかぶった半身の肩のあたりにそっと触れ、囁き願う。
 アイシテルの意味がすれ違っていたっていいから。
 この心のぜんぶをどうかありのまま受け取って、好きにさわってたしかめてほしいといつも思っている。
 何度身体を重ね、どれほど長い時間をひとつになっていたって、既に二個に生まれてしまった自分たちは、生きている限り、ほんとうのひとつには戻り得ない。
 戻れないのだ。身体も心も、どんなにしても、数を減らすことはもうない。
 いのちの創造主はきっと、このふたつぶんの重さをひとつでは支えきれないから、わざわざ二個に分けてお造りになったに違いない。
 老いも死も縁遠い不完全な命でも。ちいさく分けることで支え合うことをおゆるしくだされた。

 椅子に投げてあったガウンを羽織って静かに寝室を出た。……あ、これ琉嗣のだ。まあいいか。
 当然誰も居ないキッチンは暗闇と静謐を抱いていた。
 そっとその中へ滑り込み、カウンターの端に置いた小さなランプにだけ灯りをいれ、ポットを火にかけ、湯が沸くのを待つ間に煙草をふかし、青く揺れるガス火を眺めた。
 ほっほほほ、と絶えず燃え続ける火の音と、琺瑯のポットの中でほつほつと湯が沸き立つ音。
 静けさが肌に馴染む、冷ややかで暗い早朝。
 沸いた湯をドリッパーに細く静かに注いでいく。
 珈琲豆が芳ばしい香りを広げ、むくむくと泡立つ様を見るのは面白い。お気に入りの陶器のマグになみなみ注いだ珈琲を持って窓辺に寄ると、バルコニーの四角い暗闇の外側は底からカラフルに光っていた。

 朝靄にかすむ地平線を見ていると、夜闇が引きはじめているのがわかる。もうじき朝になる。
 熱い珈琲に口をつけ、静寂に身を浸しながら広い空を眺めていた。
 そのうちに暗闇は一層深い青に染まり、じんわり滲むように徐々に白みはじめ、夕焼け時とはまた違った明るい紫をわずかに含み、緩慢に金色に変わっていく。
 コンクリートの街並みが金色の太陽を背負ったかと思うと、赤や白の眩しい光条が広がった。
「玻璃、僕にも珈琲」
「起きちゃったの。おはよう」
 のそのそと寄ってきた琉嗣が挨拶の返事のかわり、ちゅうと落とす口付けを受け取ってからキッチンに戻り、もう一度珈琲を淹れるために水を足し、湯を沸かし始める。
 何気ない、いつもどおりの朝の風景だ。
 窓から入る光はやわらかい。
 さきほどまであんなにも、ひとりぼっちの寂しい色をしていたのに。今はもう全く別のものになっていた。
 光の色が、ほんの僅か変わるだけで。
 いつもなら一人で迎える朝だけど、今日は珍しく琉嗣が起きている。
 カウンターの定位置で適当な雑誌をはらはら捲っている半身を眺め、湯気が消えた珈琲を飲んだ。

 彼と二人、この家で今日がまた始まっては終り、明日もまた始まっては終る。何でもない日常が音もたてずにするすると過ぎ重なっていく。
 それを、当然のように側にいる半身が共に享受する。
 今日という日が彼との間に確かに存在していることが、なんとなく嬉しかった。薄氷の上に成り立つような関係でも。
「嬉しそうだね、玻璃」
「……そうかな」
「僕がいるからかな」
「それは自惚れってやつなんじゃない?」
「そうかなあ」
 窓際に立つ俺を歩み寄って来た琉嗣が腕の中に閉じ込め、なんでもない、いつも通りに明けた空を眺める。
「きみの瞳は朝の光で見るのが一番きれいだ。金色が入り込んできらきらして」
「どうしたの、今日は。饒舌だね」
「珍しく目が冴えちゃったから、ついでに僕のお姫様のご機嫌でもとっておこうかとね」
「何のついでなんだよ、ばか」
 大きな手が冷えた頬を撫で、指先が睫毛をくすぐって、目蓋を閉じるよう促す。
 背を丸めて屈む琉嗣が、俺の髪を耳にかける。
 数秒見つめ合い、ひときわ丁寧に降る薄い唇をそっと受け入れた。


(あいをして、あいをして。俺たちはいつまでこんなふうに、)

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