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お布施の意味合い

お盆期間が過ぎようとしている。

この期間、毎年、お布施とか供養とかについて考える。

私はお布施することが習慣になっている。
定期的に寄付をしないと落ち着かない。
もちろん、大した金額ができるわけではないし、そのことを自慢したいわけでもない。

お布施の行動は人間の感情や行為に対する浄化の意味合いがあるのではないかと勝手に思っている。根拠はないが、やってないと落ち着かないのだ。
サラリーマンの給料、バイトの儲けや商売の利益、額の大小に関わらずその全ては人間社会における《喜怒哀楽の結晶》だ。多少なりとも他人に恨まれたり憎まれたりされながら儲けていることを否定できる人はいるか?
人間、一生懸命にやるほどになにがしかの軋轢、摩擦は避けて通れない。それも含めて手元にやってくるわけだ。。。
そのネガティブな感情の塊りをお布施という行為で少しでも清め、払っていく、、、。いわば、心の帳尻合わせみたいなものではないかと思うのだ。

神様を信じるのか?と問われれば、<見たことないので、わからない>との答えになる。
ただ、お布施をしようと心が動くところ、人間の心のどこかに神が宿っているのかもしれない。。でないと、わざわざ、この世知辛い世の中、そんなことする人間なんていないだろう。

つまり、その存在は人間の狭い了見で定義したり確認するものではなくて、もっと大きく自然で壮大なものなのではないか。日本全国つづ浦々、今も残る大小の神社、我々の祖先は、それに親しみながら畏れ、そして祀り続ける中で暮らしてきた、、、神の存在は証明しようがないが、それとともに生きてきた人々がいたということは【真実】である。
人間にできるのは、せいぜい、自分の暮らしにあって、ただ、感じ、信じる、それだけで十分でないか、と思ってみたりしている。

私の場合、基本、所有する収益物件近隣の神社に浄財としてお供えをさせていただいているが、どうしても全部は回りきれないので、定期的に出雲大社にまとめて行くことにしている。サラリーマン時代、島根には4年勤務して馴染みがある神社でもある。
全国の神様が集まる【神有月】。
全国の神様が出雲に集まっている11月。ここで回り損ねた地域へもまとめてお供えをしにいくわけだ。手抜き詣りで誠にお恥ずかしい。
御礼と感謝のみで、自分の願い事は一切お願いしない。祈念は【神恩感謝】一本だ。

出雲の巨大な国造りのエネルギーに、任せる、委ねるながら、明日の繁栄と国土の安泰に祈りを捧げつつ、自分のベストを尽くす誓いをたててくる。

国土の分断と緊迫した国際情勢。尖閣問題はどう見てもヤバイだろう?なんでマスコミが報道しないのかも不思議だ。
さらにここに追い討ちをかけるようなコロナ騒動。国民の関心をそっちに向けさせる理由は別にあるのか、勘ぐってしまう。
我々の先人が築いてきた日本という歴史や文化が、これらの難局や少子高齢化によって希薄化されるリスク、日本がなくなってしまう、、不安だらけの毎日だ。
そんな日々にあって出雲の縁結びの力、強力な浄化エネルギーと長い歴史に触れて、日本人としての「安心」を感じる貴重な時間を持つことも必要ではないかと思っている。
もちろん、出雲でなくても、近くの神社でも全然問題ない。親しみ馴染み、受け入れる、それくらい神様はおおらかだと思う。

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