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死なないための躁鬱哲学② うつ状態という"混沌"を経験した後は、”なりすまし"て社会に溶け込む

うつ状態について考えています。

でも、考えすぎると、うつ状態がやってくるので、というか、自己とか自分とはなにか、とか考え始めると、確実にうつの深みにはまっていくので、普段は音楽やラジオや落語を聴きながら生活をしていて、そっちに思考を逃すようにしています。でもしかし、週に一回くらい、こうしてうつ状態に向き合ってなにか書きたくなる。そんな衝動に任せて、勢いで、思いつくままに、自動書記的に書いているわけです。なので、もしかしたら、ロジカル的に理解不能なことや、抽象的すぎる部分があるかもしれません。でも、それで、いいんだと思います。そう自分に言い聞かせています。うつ状態でも躁状態でもない、今の僕の状態、いわば「凪」の状態の僕が、なにか文章を書いている。それが重要なので。

このマガジンは「死なないための躁鬱哲学」というテーマを銘打っています。つまり、この死なないは、僕が死なないためであり、僕を死なせないためであり、もしかしたら、このマガジンを読んでいる、どこかの誰かが「死なない」ために書いているわけです。例えばそれは、まさにうつ病や双極性障害や、他の精神疾患や、精神じゃない身体的疾患を抱えている方かもしれないし、病気の家族を抱えている方かもしれないし、その友人かもしれないし、会社の同僚かもしれないし、さほど仲良くない知り合いかもしれない。とにかく、この社会のどこかの誰か、僕が未知の誰かが、「死なないために」書いています。

といっても、僕は医学者ではないので、このnoteに書かれていることに医学的根拠はありません。あくまで双極性障害と診断された30代過ぎの男の経験した鬱の躁状態の世界を素として書いていきます。そして、僕は哲学を専攻として学んだわけではないので、例えばキルケゴールとか、サルトルとか、ハイデガーとかプラトンとかソクラテスとか、そういった先人たちの論に紐づいて書かれているわけでもありません。
あくまで、僕という一個人の体験談であり、一個人が思考の足跡であり、双極性障害や、ひいてはその他の精神疾患を「治療」する目的のものではありません。双極性障害と診断された一人の男が、どんなことを考えているのか、それをこの社会を生きるどこかの誰かと「共鳴」し、同じ世界を「共有」しながら生きることが重要だと思って書いているのです。それが目的です。

うつ状態という"混沌"を経験したのちは、"なりすまし"て社会に戻るしかない。


えーーー、今回は上記のようなタイトルをつけてみました。

僕が経験した「うつ状態」とは、まさに"混沌"の世界でした。例えば僕は心因性言語障害になり、うつ状態であると診断されました。つまり、話せなくなったのです。そして、自分では言葉を発せないのに、頭の中で言葉や音が渦巻いて、眠れない。あとは、強烈な希死念慮との戦いです。希死念慮からは、逃げられません。やつら(僕はこれを"悪魔"と読んでいます。わかりやすいので。)希死念慮(悪魔)は起きた瞬間から思考を支配し、食事中も、読書中も映画を見ている時も、こっちがどんなにリラックス状態だろうが、関係なく、容赦なく襲ってきます。そして、「死にたい」という気持ちを誘引してくるのです。ソファーに座ってぼーっとしている時でも、部屋の梁を見れば「ここにロープがあればなあ」って考えます。信号待ちをしていれば「あ、次の次に通るトラックは大きいぞお」って無意識に考えています。悪魔は恐ろしいものです。

悪魔はとにかく自己否定しろと囁いてきます。そのため、うつ状態の時は、とにかく自己否定しかしません。時をさかのぼって自己否定です。自己否定のタイムリーパーです。
自分の今までの人生を否定しまくる。
まず生い立ちから、小学校時代に両親に叱られたことや、忘れ物がひどくて居残りさせられたことを思い出して「俺のダメな性格はあの頃に形成されたんだ」と否定する。中学校時代を思い出して、後輩にレギュラーを取られたことを思い出して、「俺の負け犬根性はあの頃に形成されたんだ」と、否定する。高校時代に言われたちょっとしたひと言を思い出して、否定する。大学時代の自堕落さを思い出して否定する。就職活動がうまくいかなかったことを思い出して、否定する。社会人になってからの失敗を思い出して否定する。俺を否定する。周囲を否定する。生活を否定する。環境をを否定する。生まれた土地を否定する。育った土地を否定する。人生を否定する。社会を否定する。
そして、最終的には生命を否定します。
否定だらけですね。とにかく否定です。否定の毎日です。
これらが渾然一体の渦となって、身体中を通っている血管を通って、ヘモグロビンと一緒に体の隅々まで全身をくまなく駆け巡ります。

いわばこれが"混沌"なのだと思います。"混沌"つまり"カオス"には様々な意味があると思います(バタフライエフェクトとか?ジュラシックパークで言ってましたよね?)僕が経験した"混沌"はうつ状態の希死念慮、ひいては自己否定だったわけです。
僕はだいたい、これが一年くらいほとんど毎日続きました。というか、今でも「凪」という平均台の上から一歩外れて、「うつ状態」になると、この思考にはまっていきます。だから、うつ状態にならないために、こうしてなにか文章を書いて、思考を逃さなければなりません。創作は希死念慮の排出なのです。

自分に深刻になるな。作品に真剣になれ。

デイビッド・ホックニー

というわけです。

"混沌"を経験した後には、つまり何者かに"なりますまし"て生きていかなければならないのです。混沌=自己否定はつまり、自分に深刻になりすぎている、ということだと思います。過去を遡ってまで、自己に"深刻"になることはない。その分、作品に"真剣"になれば、作品に"悪魔"が乗り移る。作品に"真剣"になって、”真面目"に悪魔を乗り移らせろ、ってことだと思います。

僕はこれに気がつくのに一年かかりました。長かったですね〜。
自分に"深刻"になるからこそ、焦燥感が生まれるし、何もできない自分に"退屈"して、そしてまたうつ状態になる。その繰り返しだったんです。自分に"深刻"だからこそ、自己愛が生まれるし、自己中心主義的になってしまう。
でも、最近ようやく、"真剣"に創作ができるようになりました(そういえば"まじめ"って言葉も夏目漱石がよく使ってましたよね)

"混沌"を経験したら、なりすまそう。肩書きではなく、創作する人になりすまそう。
つまり、ごっこ"遊びでいいんだと気がついたんです。

僕は最近、絵を描いています。これも"ごっこ"遊びです。画家に"なりすまし"ているのだけです。僕は作家に"なりすまし"ていますし、バンドマンに"なりすまし"ていますし、料理人に"なりすまし"ています。とにかく幅広く、”なりすまし"てみる。毎日、"ごっこ"遊びを楽しんでみる。その分、創るものには"真剣"になる。そうなってみると、うつ状態が改善していることに気がついたんです。

躁鬱人(坂口恭平命名)は、小中高時代から気分の波があるのが普通(神田橋語録によると)らしいんですけど、思い返してみると、小学生の時、僕は自分に"深刻"ではなかったんです。忘れ物が多くて先生や親に怒られても、あまり"深刻"にはならなかった。でも、僕は同級生と漫画を書いていて、それにはとにかく"真剣"だった。いわば"漫画家ごっこ"をしていたんです。小学校4年生〜5年生くらいの時は「あの時は気分が沈んでいたなあ」って時はなかったような気がするんですよね。その前後は、「ああ・・・なんでこんなにいつもいつも落ち込んでいるんだろう」って日があったような気がします。

僕はこれからも、人生で"やらなかったこと"になりすまして、生きていこうと思います。

今日も長くなってしまいました。
この"ごっこ"と"なりすます”に関してはまだまだ書けることがありそうなので、今後もまた書いていきたいと思います。

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