“幸福”になるために「ただいま」を言える場所を増やす

ちょっとした「幸せ」について書く。

僕は幸福について、人にインタビューをする企画をニソクノワラジでやっている。幸福論ノオトという企画名で、もう企画を立てて、二年半くらいになる。なぜ幸福論についての企画をやろうと思ったのか。具体的には覚えていないのだけど、きっと、僕自身が幸福について悩んでいたのだと思う。それが今は、ニソクノワラジの主軸の企画になっている。今はとにかく、色々な人に幸福について聞くのが楽しい。本当に様々な人生があると思う。

幸福論ノオトは”今を生きている”人たちの”幸福”の形を採集しているわけであり、その採集した「幸福」の点々が、形になっていって、記事を読んだどこかの誰かの救いになればいいと思う。そのために記事を書いているし、インタビューをしているのだと思う。

幸福について考えることは、近代から現代では切り離せないものだし、それこそ古代ギリシャの人たちだって考えてきたことだ。それくらい幸福について人類は深く長く考えてきた。だからこそ、今、僕が”今を生きる”人たちの幸福について、”採集”して”編纂”することも、(ささやかながら)きっと未来に続いていくことなんだと思うし、それを願っている。

つくづく、「幸福」というものは”線”ではなく”点”で存在しているものなんだと思う。もしかしたら、僕たちは幸福を線で考えがちじゃないか?ある一点で「幸福」を掴んだら、そこから「線」でずっと幸福が続くと思いがちである。でも実際はそうじゃないのかもしれない。幸福は「ちょっとした幸せ」という本当に小さい点が積み重なって、一種の線に見せているだけなのかもしれない。映画が24コマの写真の連なりのように。分子が連なりあって、万物を形成しているように。幸福も小さな「点」の連なりが、一本の線になって、「幸福」だと”錯覚”しているだけなのかもしれない。きっとその「点」と「点」の間には「不幸」という点も存在しているはずだし、綺麗な一本の線が形成されるとは限らない。歪な凹凸だらけの「線」かもしれない。

僕は「ちょっとした幸せ」について考える。美味しくご飯を炊けたときや、面白い映画を見た時、面白い本を読んだ時、友人と話しているとき、誰かとシンクロできた時、僕は幸せを感じている。壮大な幸福ではない、日常のちょっとした瞬間にやっぱり「ちょっとした幸せ」はあっちからやってくる。

僕は今、「ただいま」を言える場所を意識的に増やしている。家に帰るときはもちろん「ただいま」を言う。でも、家だけじゃなく「ただいま」を言える場所をなるべく歩いて20分圏内に増やしている。意識的にそれをしている。家がそうだし、仕事場がそうだし、行きつけのカフェや、居酒屋や、もしかしたら友人の家だってそうなり得るかもしれない。それくらい「ただいま」という言葉は軽いものだったのに、いつの間にか、街中で「ただいま」「おかえり」と声を掛け合う姿は見かけなくなったな、と思う。もっとカジュアルだった気がする。いつの間に「ただいま」という言葉はこんなに重いものになったのだろう。「ただいま」を誰にも言えなくなったとき、僕は「不幸」になると思う。それがきっと、孤独ということだからだ。孤独で、お腹が空いていて、誰とも話ができないとき、それが「不幸」という形なのだと僕は思う。だからこそ、僕は僕の方から「ただいま」を言える場所を増やしている。

「ただいま」という言葉は”点”だ。でも、きっと、その点は壮大な”幸福”に繋がっている気がするのだ。

今日のパステル画『路上の蜜柑をついばむカラス』

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