『オリンピックと万博 巨大イベントのデザイン史』

 この本は1週間ほど前にブックオフで偶然に見つけた。なかなか読めなかったが、今日夜中に起きてしまい、読むことが出来た。
 まあ面白い本で、1960年の「世界デザイン会議」が東京で開催され、それ以降「デザイン」という言葉が社会に浸透していくプロセスを、歴史的な史実や、建築家・デザイナーの作品や、社会のウネリと共にまとめている。
 1964東京オリンピックといえば丹下健三と亀倉雄策であり、1970大阪万博といえば岡本太郎である。
 これらは誰でも知っている。しかしこの三者ともが両イベントに深く関わっている。
 丹下健三は、両イベントの主役級のリーダーであるが、戦前の1940年東京オリンピックの返上と、同年の「皇紀2600年」を記念した万国博覧会の中止から24年後と30年後のリベンジ事業であった。
 亀倉雄策は、東京オリンピックのシンボルマーク「真っ赤な日の丸と、金文字の1964TOKYO」の作者であり、「スタート」「バタフライ」「聖火ランナー」という公式ポスターも手掛けている。しかし、大阪万博では落選の憂き目に遭っている。
 公式テーマであった「人類の進歩と調和」が曖昧過ぎて、明確にデザイン化できなかった。イーズカも「進歩と調和」なんぞ、一緒に掲げるのが間違っている、と思う。
 本来の進歩とは、調和なんかは蹴散らしていく。
 岡本太郎は、オリンピックのメダルの片面などは担当しているが、何といっても「太陽の塔」である。本来はお祭り広場に隣接する「エキスポタワー」がシンボルであり、会期終了後も残されるはずだったが、大屋根を突き抜ける「太陽の塔」の前では歯が立たなかった。一時期は放置されたままとなり、2003年には解体撤去された。
 上記の3者の個人史と見てもオモシロイ。また、その周辺にキラ星のごとくに多士済々がうごめいていた。
 高度経済成長期の末期、オリンピックと万博という国家プロジェクトは、国民すべてを熱狂させた。日本にも、大敗戦後の焼野原から復活していくエネルギーが満ち溢れていた。
 しかしこの時期は公害にまみれており、水俣病や四日市ぜんそくなど「負の側面」も顕在化し、若者の反乱が吹き荒れていた。
 万博後、2度のオイルショックで日本も変貌していく。が、環境技術を先取りして、1980年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われる時代を迎える。
 その後、バブルに突入して1991年に崩壊してからは「低迷の30年」に沈み、現在は新型コロナで世界全体が大転換期に直面している。
 1957年1月生まれのイーズカは、これらの歴史をすべて体験している。1964年のオリンピックは7歳で小学2年生だった。1970年の万博は中学1年生。大学入学が1976年で、オイルショックのトイレットペーパー騒動を経て学生運動は絶滅期。社会に出たのが1981年で三菱地所がロックフェラー・センターを買収したり「日本を売ったら、米国が3個買える」などの与太話が飛び交っていた。バブルに踊った後に崩壊を迎え、万来社を設立したのが1995年で、山一證券破綻などの金融危機の前夜であった。
 いまやコロナ騒動の自粛で出掛けることもままならない。
 だが、現在63歳にしてチョー健康体なので、これから20年は頑張らなくてはならない。

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