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第百五話 ダーウィンに消された男

その朝、CRDは分厚い郵便物を受け取った。朝から郵便物を受け取ることは別段珍しくはなかったが、分厚い郵便物が朝に届くのは初めてだった。
「それにしても分厚いな」
CRDはそれが本当に自分宛のものなのか、表書きを見た。確かにCRDと記されている。
「誰が一体?」
引っ繰り返して裏書を確かめた。
ARWと書かれている。
「誰だろう?」
その名前には見覚えが無かった。無かったが、「見知らぬ人がわざわざこんなに分厚い郵便物を送ってくることなどあるだろうか」と手当たり次第、頭の中の人名簿を繰ってみた。
「彼かな、奴かな?」
実は数年前、王立協会が催してくれた出版記念パーティーで髭面の大男が「先生、CRD先生、以前から御高名は存じ上げておりました。実は私めも博物学を学ぶ学徒の一人でして、今度、機会を得て東南アジアにフィールドワークに赴くことになりました。ご報告できることがございましたらご連絡差し上げたいと思います。よろしいでしょうか」と、一方的に話して立ち去ったことがあったのだ。
その時は、あんなむさ苦しい大男が博物学の研究者であるなどとは端から思わず、早々と記憶の棚から男の存在を抜き捨ててしまった。
差出人の見当もつかないまま、CRDはその分厚い郵便物を開封もせず、机の下に放り投げた。郵便物はまるでそこに存在しないかのように数か月の間存在した。
ある日、CRDは友人たちとの会食でしたたかに酩酊して帰って来た。泳ぐように書斎に入ろうとして、身体の自由が利かないことも忘れ、床の荷物に躓き、したたかに向う脛を床に打ち付けてしまった。
「痛タッタッタッタッタ」
せっかくの酔いも一気に醒める痛さだった。
「誰だ、こんな所に物を置いた奴は」
CRDは腹立ちまぎれに自分を躓かせた荷物を手に取ると、壁に投げつけた。荷物はドスンと鈍い音を立てて壁にぶち当たると、倒れていたCRDの足元に転がって来た。
「ええい、忌々しい。どんな荷物が儂を転ばせたのだ」
そう思ってCRDは荷物を手にした。
ズシリと重い。
「郵便か、何でこんな所に郵便が転がっているのだ」
何かと忙しいCRDは、数か月前に自分宛に来た郵便のことなどすっかり忘れていた。手にした郵便を開封しようとしたが、それにしては夜が更け過ぎていた。CRDはドッコイショと起き上がると寝室に向かい、靴を履いたままドサリとベッドに倒れ込んで寝入ってしまった。
翌朝、不快な頭の痛さで眼が覚めた。水が欲しかった。台所でコップ一杯の水を汲むと、痛む頭を撫でながら書斎に向かった。痛みとともに頭を覆っている不快な雲を水と一緒に飲み下そうとしたのだった。
飲み干したコップを机の上に置こうとしたとき、何やら分厚い包みが眼に入った。昨夜の郵便だ。
CRDはもう一度、その郵便物が自分宛のものであることを確かめ、引っ繰り返して差出人の名前を確認した。だが、その時にもやはりARWと会ったことは想い出せなかった。
だが、とにかくその郵便は自分宛のものであることだけは確かだ。ならば開けないわけにはいかない。
CRDはズキズキ鈍痛の残る頭に手を遣り、そう云えば昨夜この郵便物に躓いて脛を強かに打ったことを想い出した。ズボンの裾を捲ると確かにミミズ腫れになっている。
「ええい、忌々しい」と思いながらビリビリと郵便を開封した。
中から大部のレジュメのようなものがしっかりと片側を綴じた状態で出てきた。
「何だ、研究論文なのか、それならそうと」
CRDはタイトルを一目見て驚いた。それはCRDが長年追い求めてきた研究の成果を先取りするものだった。CRDは急く気持ちを抑えながら論文を読み進めた。
「こっ、これは!」
CRDの顔面は蒼白だった。
CRDは自らの野望と自分の置かれている立場を考えた。何としても自説を世に出したい自分、そして王立協会フェローとしての自分。
この論文は、これまで自分が考えてきたことをフィールドワークによって克明に実証していた。
「立論も詳細にわたり、記述も挿絵も一級の出来だ。これ以上の説得力はない。これを自説として世に出しては・・・」
しかし、自分は王立協会のフェローとして義に反したことはできない。
CRDは苦悶した。さんざん悩んだ末に結論を出した。
「この論文をARWの名前で世に出し、精一杯その普及をサポートしよう」
そしていよいよその季がきた。
王立協会の定例会で発表するチャンスが訪れたのだ。
その日の朝早く、CRDはARWの論文と自らの推薦文を入れた鞄を小脇に抱え、自宅を後にした。CRDは些か紅潮していた。
無理もない。これまでの常識を覆す、謂わば驚天動地の事態を自らの手で惹き起こそうとしているのだから。
王立協会に向かういつもの馬車が今日に限って遅く感じられた。心無し喉も渇く。掌も汗でびっしょりだ。膝もガクガクする。
馬車が到着すると、CRDは勇んで飛び降りようとした。あまりに気合が入り過ぎていたのだろう。よろけて転倒し、向う脛を思い切り石畳に打ち付けてしまった。
「あっ、痛タタタタタ」
ズボンの裾を捲り上げると、昨夜見た痣の上にもうひとつ更に大きな痣ができていた。
CRDの頭に血が上った。
そして何を思ったのか、抱えていた鞄を馬車に投げ込むと引き摺る足で会場へと入っていった。
 
 

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