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第百八話 Change

私は小学生のとき、「将来、小説家になるんだ」と心に決めた。国語の教科書に載っていた芥川龍之介の「トロッコ」を読んで、いたく感動してしまったのだ。そのときの決心が早すぎたのか、そうでなかったのか、そもそも小説家になろうとしたことが間違っていたのか、そうでなかったのか、それは判らない。まだ判断を下すだけの材料が揃っていないのだ。もしかしたら判断を下すのが怖くて、避けているだけなのかも知れない。
小説家になると決心した私はそれなりの大学の文学部を卒業した。成績は必ずしも良くはなかった。
「小説家になろうとする者が学校の成績などに感けていては、それこそ沽券にかかわるではないか」
卒業後はそれなりの新聞社のあまり目立たない記者になった。
「どうしてって、新聞記者上がりで大成した作家は、記者時代はスクープをバンバン取ったりしないものだからだ」
そして三十五歳になったのを機に小説家の道に進もうと退職した。
「どうして三十五歳で転職したのかと云うと、当時、コンピュータ業界を中心に三十五歳定年節が流布していたからだ」
その判断に咎を受ける筋は特段無いだろう。
小説家の道を歩み出そうとしたものの道は一向に拓けず、書く小説書く小説が悉く賞を逃し、小説家になるのは日暮れて道遠しの感があった(ここはちょっと文学的に)。
窮した私は大学時代の友人でそれなりに大手の出版社で編集をしている男に相談をした。
単刀直入に訊いてみた。
「どうして俺の小説はこうも受けないのだろう」
旧友は面と向かっては言い難いらしいのか、身体を斜に向け、それから徐に言い放った。
「そうだな、なんて言うのかな、テーマが大袈裟過ぎる気がするなぁ。それに文体もありきたりで、描写も紋切型が多いし、読んでいて登場人物の息遣いが感じられないし、ディティールが書き込めていない。第一、文章のテンポが悪いんだよなぁ」
「何だ、それじゃあ、まるっきし小説になっていないってことじゃないか」
「いや、そうとははっきり言ってないよ。敢えて指摘すればってことだよ、敢えて」
私は気分を害した。だが、旧友の指摘は正鵠を得ていた。
彼の指摘は私には心当たりのあることばかりだった。だが、急に文章が上手くなるわけでもなければ、面白いストーリーが湧いてくるわけでもなかった。そこで、「何か小説家になる妙案はないかね」と訊いてみた。
「そりゃあ、あるさ。昔から『ベストセラーを書く方法』って本を書けば売れるってのがその問いに対する答えなんだが、そんなことじゃ慰めにもならないな」
「当り前だよ。そんな言い古されたジョークなんか吐きやがって」
私はガックリと項垂れた。
私の落胆ぶりがあまりに深刻そうだったのか、旧友は「そうだ、妙案と言えるかどうか判らないが、こうしたらどうだろう」と、声のトーンを少し下げて話を継いだ。
「ほら、文学部の大先輩にAさんがいるだろう。毎年のようにノーベル文学賞の候補に名前の挙がっているあのAさん」
「ああ、あのAさんか。それで、そのAさんがどうかしたのか」
「いやね、俺にあのAさんとちょっとしたコネが有ってね。それにいつも気難しそうにしているあの御大だが、実は気さくな人で、ああ見えても後輩の面倒見が至極好いらしいんだよ」
「それで」
「何だよ、俺がせっかくお前のことを親身になって心配してやっているのに、その投げ遣りな態度は」
「いや、すまん、すまん。なにしろあまりの大家だからな、Aさんは。雲の上の人の話をしてもらっても俺には縁の無い話じゃないか」
「いや、当たって砕けろだよ。会ってアドバイスをもらってみてはどうだ」
「あのAさんが俺なんかに会ってくれるかな?」
「いや、だから当たって砕けろさ」
「そうか、砕けて元々。当たってみるか」
と云うことで、話の勢いで大作家のA氏と会うことになった。
「ほう、それは、それは。ところで君は何をテーマに小説を書こうとしているのかね」
「はぁ、まぁ、認識と存在に就いてですかね」
「認識と存在とな、それはまた難しいことを考えるものだなぁ」
「いえ、私だって好き好んで難しく考えている訣ではありません」
「ほう、それではまたどうして認識と存在などと云うことを小説にしてみようと思ったのだね」
「実は、認識とその集積である存在が人間にとって根源的な問題になるんじゃないか、そう思いまして。例えばこんな内容なんですが・・・」
 
「あの時、みんなでつまみに串焼きや手羽先なんか、肉ばかり注文した時、『人間の身体は食べた物でできているんだから、ちゃんと野菜なんかも注文しろよ』と言ったんですよ。確か、そう言ったのは井沢さんじゃなかったかと想うんですよ」
「俺が? 野菜をって、そんな事?」
「多分、井沢さんだったと思うんですけど・・・。それでその時、人間の体は確かに食べた物でできているのは判るけれど、じゃあ人の心は何でできているんだろうって考え始めたんです」
「まあ、お前も酒の席でよくもそんなに深刻な事を考え付くものだな」
「駄目なんですよ、僕。酔うと考え込んじゃうんです、昔から。でもその前から、人の心ってどうやってできるんだろうとか、人間て何だろうって、少しずつですが自分なりに考えるようになっていたんです」
「へぇ、お前がね」
「ええ、それで『人間の身体は食べた物でできている』って話を聞いた時に、頭の中で『人の心って何でできているんだろう』って云う疑問と結びついて、急に人間って何だろうって云う想いに捉われだしたんです」
「へぇ、お前、哲学者みたいだな」
 
「と、まぁ、こんな具合に話を進めようと思っているんです」
大作家はカップの底に残ったコーヒーをズッと啜ってから苦い表情をみせた。
「ほう、なるほど、なるほど。それは難しくなるのも無理はないわな。しかしだな、そもそも小説などと云うものはだな、そんなに難しく考えてはいかんよ」
「はぁ」
そこで私は大作家のアドバイスに沿って、一旦、認識と存在に就いて考えるのを止めることにした。そして、日々、頭に浮かぶ取り留めのないアイデアを小説にまとめることにした。すると、その軽さが読者から好評を得て、それなりに売れるようになった。
それに引き換え、暫く新しい作品が世に出ていなかった大作家はどうしているのだろうと、編集者に近況を訊ねてみた。すると「あの先生はお前と会ってからすっかり変わっちまってね。昨今、認識と存在と云うテーマに憑りつかれてなかなか話がまとまらず、随分難儀しているようだよ」との返事だった。
私は申し訳ないことをしたと思った。せっかく名声を博した大作家の晩節を私の悩みでみすみす汚してしまったのだ。
僭越ながら、今度、アドバイスをしに伺おうかと思っている。
勿論、どうしたら売れる小説を書けるかに就いてなのだが。
「やれ、やれ」

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