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第五十三話 気詰まりな本屋と悪い客


「またやらかしてしまった」
二度目はこれまでも何回かあるが、三度目は初めてだ。
同じ著者の同じ本を重複して買ってしまったのだ。
「う~ん、何とも情けない」
しかし、老いが進み、物覚えが悪くなったからではない。結構若いとき、それも三十代の頃から、この手のへまは犯している。
「これをやるとかなりへこむ」
まず、「前に買ったときに、その本をしっかり読んでいるのか」と云う自分に対する疑いが芽生える。内容を理解して自分のものにしていれば、二度買いすることはないだろう。
そして最近では、「俺も遂にボケたのか」という不安である。
四十代に入ると急速に記憶力が衰え始めた。それは日々実感しているので、手に取るように判る。
「このまま記憶力が減衰し、近いうちに思考力もボロボロになってしまうのではないか」
そんな不安に襲われる。
私は一般的な人間にしては多分多読の部類で、人の何倍も本を買う。これまでも重複買いはなくはないのだが、得心のできる範囲に収まっている。しかし同じ本を三度ということになると、さすがに呆れるというか、「酷い」と思わざるをえない。
通勤途中の駅の本屋が私のホームグラウンドだ。店員とも顔馴染である。
「これ、同じやつを三冊買っちゃったんだけど、引き取ってもらえないかな。もちろん、前に二回も買った本だから、まったく読んでいないけれど」
「え~っ、買ったときのレシートあります?」
「あっ、これね」
「これで三回目ですか。基本的に、店では返本は認めていないんですよね。次からは応じられないかも知れません。買うときは気をつけてお願いしますね」
店員の我慢の限度も超えてしまっているのだろう。
金が惜しいわけではない。
同じ本が自分の本棚に何冊も並ぶ無様が耐えられないのだ。人に差し上げるにしても私の読書傾向はかなりマニアックなので、蜘蛛の図鑑とか、精神病理学の解説書とか、文化人類学の本をもらっても迷惑に感じる人が多いだろう。
かといって、無闇に本を捨てるのは忍びない。本を粗末に扱うことほど罪悪感に苛まれることはないのだ。
店員にしてみても、「この人、本を買ってくれるのは嬉しいけど、買ってもちゃんと読んでいるのかな?」と疑問に思うことだろう。
本を二度買いする理由が思い当たらないわけでもない。本屋で本を物色するとき、常日頃抱えている問題意識にシンクロする本を眼にすると、その問題意識が強ければ強いほど、長年恋い焦がれていた恋人に逢うような高揚感で買ってしまう。しかし、その問題意識自体が、以前読んだ本から触発されたものであったり、深く納得して、あたかも自分が自ら掴んだもののように錯覚していることがある。すると以前買ったときの記憶は失せて、つい手が出てしまう。パラパラと拾い読みして内容を確認すると以前読んだことがあるので当然のことなのだが、「我が意を得たり」と思う記述にぶち当たる。「これは早速買わねば」と思ってそそくさとレジに向かう。
そして家に帰って、ジャンルごとに分けた書棚の中に同じ本を、それも既に二冊も鎮座していたら・・・。
それこそ自己嫌悪の奈落の底に突き落とされてしまう。
「なんと愚かな・・・」
かといって本屋通いが止むものでもない。
思いがけない企画や新しい知見に出逢えるかと、またぞろ足を運ぶ。
二度買いのリスクはあるものの、逸る気持ちは抑えきれない。
今日も、あの著者がこんなテーマで書いているのかと期待する本に出逢った。レジに向かうと、申し訳なさそうに店員に本を差し出している中年の男が先客としていた。
「これ、同じやつを三冊買っちゃったんだけど、引き取ってもらえないかな。もちろん、前に二回も買った本だから、まったく読んでいないけれど」
「え~っ、買ったときのレシートあります?」
「あっ、これね」
「これで三回目ですか。基本的に、店では返本は認めていないんですよね。次からは応じられないかも知れません。買うときは気をつけてお願いしますね」
どこかで聞いたことのある台詞だ。男は同じ本を買ってしまい、引き取ってはもらえまいかとしきりに店員に懇願していたのだ。世の中には似たようなへまをする人もいるもんだ、とちょっと安心した。
私の順番になって、レジで店員に買おうとしていた本を手渡した。すると向こうから「あっ、この本ですか。これ、二冊目ですがいいんですか」と指摘されてしまった。なるほど、そう言われれば前に買ったような気がしないでもない。
「またやらかしてしまったか」
しかし、店員の記憶力はそんなにも良いものだろうか。不思議に思ってレジの中を覗くと、端末に私の購買履歴がずらっと並んでいた。これが顧客管理システムというやつか。誰が、いつ、どこで、どんな本を買ったのか一目瞭然である。
「どんな本を読んでいるかが判ってしまうということは、私の頭の中を丸裸にされているようなものなんだな」
嫌な気がした。
釣銭と一緒に買い替えた本を受け取る時に店員と眼が合った。店員は誇ったように少し微笑んだ。
その一件があって、私は長年贔屓にしていたその書店からすっかり足が遠のいてしまった。店員が若い女性や同年代の男性であると、気恥ずかしくてもう本が買えなくなってしまったのだ。


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