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長文を書きなぐりたいと思ったんです。

思っている全部を文字でぶちまけたい。

誰に見られたいとかそうじゃないんですけど。海に向かって石を思いっきり投げたいとか、カラオケで叫びたいとか、深夜に人っ子一人いない道路で全力ダッシュしたいとか。そういう類いの衝動です。


私は気持ちを正面から受け取ることが大の苦手です。
一方的に投げっぱなしの方が楽といいますか。返答を待つこともしなくてもいいですし投げる方向も加減も全部自分のその時の気まぐれのままにすればいいからです。


優しくしてほしいから、いい人に思われたいから気遣いでも何でもします。痒い所に手が届く性格だと自分でも思いますし「こうしてほしいんだろうな」ってことも平気でさらっとこなしちゃいます。見返りとかそんなの全然気にも留めていないですって素振りでサバサバを演じるのがうまいのです。

「いい人だよね」そう言って。
みんな十中八九騙されていきます。

良識のある人っていうラベルをまとってしまいさえすれば誰も脅威でなくなります。いい人、もしくは、退屈な人。その関心のラインでとどまってくれる。これ以上心的領域に侵入されることはない、無関心こそが私にとっては楽園です。話をする・しない、気を遣う・遣わない。人間関係が簡略化されて変な駆け引きに脳のエネルギーを消費しなくて済むようになります。HSPさんならこの感覚わかったりしませんか?

誰からも愛される存在になりたいというにならまだ救いがあるかもしれません。それに比べて私のしていることは「貸し作り」です。無償で笑顔やら気遣いを振りまいといてその実、立場的に優位を保っていたくて必死に土壌を固めようとしている。
「あなた、先にいい思いをしておいてそれ以上のこと望むなんて贅沢だと思わない?」って言い逃げが出来る様にするために。
知り合ったその瞬間からいざって時のことを算段している。


私は人間関係を終わる方向でしか想像していない。
結末はいつだって私の方から逃げるの一択。


この人と仲良くするか、しないのか。それは直感として初対面の数秒で判断がついています。(その直感に抗いたくて時々判断を泳がせたりしますが予測となんら変わらない結果に「やっぱりそうですよね」ってそれ自体もテンプレになりつつあります。)
ざるの目から零れ落ちていった人たち、別に仲良くしたいと思わない人との交流はほぼ社交辞令で済ませようとします。そういう時の私は上記でも書いたような表優しの裏残忍な冷酷な面なのです。
「このひととは踏み込んだ関係にはしない」って頭でふるい分けをしたら最後覆ることはありません。
表面上の優しい私しか知らない、その相手からしてみたらつかず離れずの私の態度はすごく疲弊すると思います。困惑している姿に申し訳なさも覚えるのですがそれはそれ、「私なんかに構ったのは損だったね」と、とことんうんざりしてほしいのです。それも計算の内なのだから。

常に予防線を張り近寄られないようにする偽善行為。
近寄ってほしくないなら最初からそっけなくしていればいいじゃん、そうすればいいのに嫌われる勇気は私には持ち合わせていないのです。

私は脆くて臆病。

正面切って相手の気持ちを受け取ることができません。向こうの誠心誠意の圧に私の心なんてきっと簡単に折れてしまう、そんな気がしてならないからです。


とにかく脅かされたくなくて必死なんです。

怒られたくない。
非難されたくない。
失望されたくない。
譲歩したくない。
犠牲にしたくない。

あの時みたいに自分の感情を折ることだけはしたくない。

迫られてしまうとどうしても思い出してしまうのです。
逃げられない恐怖のなか、母が私にしてきたこと。

「”私は馬鹿です”って自分で言ってみろ」

目を直接見れないほどの形相で突き刺すような罵声。繰り返し繰り返し、母親の納得がいくまで同じセリフを言わされ続けた記憶。

自分の心と逆のことを繰り返し言い続けるのって思っている以上に辛いことです、どう苦しさを表現するのが正解なのか。誰か教えてほしいです。

当時10歳程度の自分には命令のまま従うしかできませんでした。

今は心を殺せ。
表面を作ろうことに専念すればいい。
耐え抜けばいつかは終わるから。

そう頭で説得させているしか方法がなかった、なんて自分は不甲斐ないんだろう。恐怖から生き延びるために母親に従うしかできなかった。


本当に弱い、本当に臆病。


脆いことを一番よく知っているのは紛れもない私自身。
恐怖に支配されたら最後、何にもできなくなってしまう無力な自分自身をせめても守ってあげたい。

本当に怖気づいて動けなくなってしまう前に、当時と同じ思いをしないために。そうやってずっと守ってきた。
私の人づきあいがなんか違和感でしかなかったのは自分を守るんで必死だったからだ。

そのことに気が付くのに随分と時間がかかりました。
私は怖かったんだなって。その恐怖は今になってもずっと引きづっているんだなって。このトラウマの仕組みを理解するうえで思い出すことはすごく大切でした。

本当に辛い記憶っていうのは自分でも忘れるようにできているらしい。
じゃなければこんな擬似社交性も身につかず今頃引きこもりだったと思う。
忘れることで気ながらえていたけれどそれは応急処置に過ぎなくて。
行きつく先は人間関係リセット症候群。深い間柄になって支配される感覚に恐怖して自分から断ち切ってしまうあの現象。そういうときの私は極端なエゴイストでしかなくて信頼も何も残らないさみしい結末しか生まないのです。

私はその繰り返しに飽きてしまった。ループの現象を変えたいと思った。原因は分かったし活路はあるのだけど…わかっていても予防線を乗り越える作業ははすごく心が怖いって言ってる。


でも変わりたいと思う。


怒られるのもへっちゃら…とまではいかなくても。よし、つぎだ。って切り替えられるようなそんな図太い人間になりたい。社交辞令を乗り越えて意外性まみれの親交を味わってみたい。

私の目標は人生のパートナーを見つけることなのかもしれないって最近は思うようになりました。結婚とかはちょっと。今はレベルが高すぎて考えられないけど喧嘩もできて仲直りもできる関係ができたらうれしいなって思う。すごく憧れるんです。喧嘩。私あんまり仲直りとかのやり方知らないから。

本気でぶつけ合えて満足して謝れるようになって、そのうえであえて譲り合ったり我慢して、ぶつかり合うのもお互いに公認になれる仲になれたら…なんかすごいことだなって思うんです。


みんなからしたら当たり前のことなのかな?

人として多分当たり前にできる部分が私にはできていないから人間に近づきたいwそう思うんです。

書いてすっきりした。


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