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愛されたいと願う事さえ私にとっては贅沢なのでしょうか?


あなた」のたった一人の子どもとして

無条件に愛されたかった



これに気づけた人は「家族のしがらみから一歩進んだ人たち」なのではないかと最近は思います。



”愛されたかったんだよね”

それを自分に言ってあげられたらすごく楽になるよって話をします。


きっと誰にでも悲しみの起源はある



私の悲しみの起源は「妹のお世話ががりとしての私」です。
下に兄弟がいる人はあるあるかもしれません。


家に赤ちゃんが突然襲来すると生活は妹一色になりました。その革命に巻き込まれた当時4歳の私。


泣いていたらあやさないといけなくて
おむつも変えないといけなくて

出来ないと速攻で母に怒られていました。


「ワタシなんかより妹がいればいいんだ」って単純にすねた気持ちもあったんですが


それ以上に最高に悲しかったんです。
グッと何かを飲み込んで我慢しなければいけないことが。


私がいくらダダをこねたところで眼の前の赤ちゃんが泣き止んでくれることはないのだから。
4歳の頭でもそれはわかっていたんですね。


いまだに後遺症的な感じで赤ちゃんの泣き声が苦手です。


「私がなんとかしなきゃ、じゃないと」って当時の私が焦っているんです。緊張で体が冷え切って縮こまっている自分に後から気づいたりします。



辛かった記憶を思い出せても、肯定してあげることは難しい



私がこの記憶を「つらかった」とこうして文章にできるのは
自分に肯定してあげられたからです。


「肯定する。」これがなかなか難しいんです。


認めようとすると必ずと言っていいほど誰かが抵抗してくるからです。



「妹をそんな風に邪険にしてお姉ちゃんとして最悪だったよね」って

多くの人はここで猛烈な反対意見に悲しい心をのまれてしまうんです。


のまれてしまったら最後「お母さんは一人で一生懸命だったのになんで快く手伝えなかったんだろう」って

そんな思考にすり替わっちゃうんです。


自分を責めてしまう思考の時は決まって

「自分のせい」じゃないことを
「自分のせいだった」と思い込むことで

もう終わったことだと無理矢理心に蓋をしている状態になっているのです。


この原理に気が付けないと当時の悲しさは埋葬されることなく下手したら一生そのままです。事実そういう人たちが世の中の大半です。


ただただ首を絞めるばかりで、いつか本当にコロッと死んでしまうのです。




あなたはどうでしょうか?
悲しかった子どものころの記憶を思い出そうとするといつの間にか

自分を責める思考にすり替わっていませんか?
「ワタシなんて」…って当たり前に口ずさんでいませんか?


ただでさえ辛いのにそれが一生続くのか…
考えただけで白目をむきます。



気づけない世の中の大半の人たちに紛れて
心の痛みをごまかして生きていきますか?


一緒に思考のループから抜け出しませんか?




自分を責める心を自覚できているならそれは悲しさを手放すための第一歩です。


思うだけじゃ足りなんです。
気持ちを声に出してやっとこさなんです。

言葉にならない悲しみは
言葉にしてみないとわからないのです。



悲しみがそっと背中を押してくれて
心から安心できる世界に出会えるまで

もうあと一歩ですよ。





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