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クリエイターを諦め切れなかった私がデザイン留学するまで②

こんにちは。イリノイ工科大デザインスクール(Institute of Design, 通称ID)に留学中のShinです。少し時間が空きましたが、私がデザインスクールに入学するまでの経緯について続きを書いていきます。

前回の記事はこちら

良いプロダクトとは何かを考えさせられた商品調査

シンガポールから帰国した年は出国前と同じ自動車の需要予測をしていましたが、1年後、同じ部署のユーザー調査の仕事に移ります。購入者へのアンケート調査設計と結果分析、新モデル・モデルチェンジ前のコンセプト調査が主な業務になります。

異動後早速、新型モデルを評価する調査を任されます。ブランドを代表するモデルの一つで責任とやりがいがありましたが、今までと全く違う業務で何から手をつけて良いかわからない状況でした。また、代表的なモデル故の難しさにも直面します。

立ち上がり当初、関係部署含め周囲からはそこまで難しいプロジェクトではないと見られていました。詳しくは申し上げられませんが、その商品の持つ課題は既にはっきりと見えていたので、そこの評価を押さえれば問題ないという見方が社内のコンセンサスでした。

しかし、商品企画の経験豊富な上司の意見は違います。クライアント部署の要望を叶えるのはさることながら、もう少し商品の先を見据えた調査をした方が良いとアドバイスされたのです。

「初代が開発された時のコンセプトは何か?」
「そのコンセプトが歴代のモデルでどのように達成されて来たのか?」「ユーザーの認識は昔と今でどう変わったのか?」
「ユーザーはどこに価値を感じており、背景にどんなニーズがあるのか?」
「上記を踏まえた上で、今回の調査では何を目的とするか?」

禅問答のような質問が上司との打ち合わせで毎回繰り返されました。正直最初は何の話をされているのかわかりませんでした。質問紙等の相談をしているのに何故このようなことを聞かれているのかピンと来ていませんでした。

このような反応は私だけではありません。上司の指示で、クライアント部署にコンセプト評価の提案を行った際も理解を得るのに時間がかかりました。また、当初プロジェクトチームには入っていなかった、コンセプト企画部署を巻き込むことになり説明に伺った際も、何故そこまでする必要があるのかはっきりしないと言われました。

しかし、上司の禅問答に何とか答えようともがく中で、当該モデルが歴史的な分岐点を迎えていることが段々とわかるようになります。初登場時の役割を終えつつある中で次のコンセプトを模索すべきであること。自動車の商品検討期間は長いのものの、生産工程の検討も踏まえると意外と時間は残されていないこと。これまでのコンセプト評価を”今”行うことが、近い将来次モデルの検討において必ず役に立つこと。点が線として繋がっていきました。

最終的にプロジェクトは関係部署の理解と協力を得て成功に終わるのですが、私自身にとっては「良い商品・コンセプトとは何か」を考えされられる貴重な機会となりました。そして、当時の上司が何を伝えようとされていたか今ならはっきりわかります。つまり、デザインの世界でよく言われる”コンテクスト”の重要さについて話されていたのです。歴史的な背景、ユーザーから見た商品の価値を理解した上でないと良い商品は生まれないというデザインの世界でよく行われる議論について懇々と説明されていたのだと今振り返ると思います。

そして、このプロジェクトは私にとってマーケティングリサーチだけはなく、実はデザインリサーチであったのです。既存の問題点が”どう”受け入れられるかを改善するかだけでなく、背後にあるユーザーのニーズやインサイトを通じて”なぜ”その商品が必要なのかを理解し、同じ文脈に沿った上で新しい価値を提供すること。それを実践をもって学んでいたのです。このような機会を提供してくださった当時の上司には感謝の念が尽きません。

当時は胃がキリキリする日々が続きましたが、このプロジェクトは私にとって一番メーカーらしく最も印象に残っている仕事の一つです。

分析屋からの次のキャリアを模索するも、しかし…

実は商品調査の仕事は1年で卒業となり、次に購入後のユーザー満足度の分析の仕事に異動になるのですが、引き続き満足度データを通じてエンジニア部署やマーケティング部署と商品の議論は続けていくことになります。

その中で、私の中で商品企画の仕事をしたいという思いが大きくなっていきます。アナリストとしてこれまでユーザーのニーズを見つける努力をしてきましたが、分析屋の仕事は”見つける”ことまでで、その後の”作って届ける”ことは別の部署の仕事。しかし今後はその部分を自分が担っていきたいと考えるようになります。それを人はエゴと言うのかも知れません。ただ、この頃がクリエイターというものを意識し始めた時期であったことは確かです。

しかしながら、会社の中の達成はなかなか厳しくなっていきます。度重なる組織変更で、私のような事務職が商品企画を丸々やれる機会が減っていきました。正確には、事務職でも商品企画には関われるものの、企画後のオペレーション的な仕事の比重が大きく企画の主体はあくまでエンジニアという流れが強くなります。当時の組織に詳しい人からは、理解の甘さと別の道があったことを指摘されるかも知れませんが、少なくとも私にはそう見えました。この流れが良いか悪いかではなく、私のやりたい事と現状にギャップが少しずつ生じ始めた、シンプルに言えばそういうことです。

その後、私はモヤモヤ期に突入することになります。「どうしたら自ら考えるキャリアを描けるか」ふとした瞬間によく考えていました。そんな悩める私はある本との衝撃の出会いを果たします。そして、デザイン留学を決意することになるのです。

というところで本日はここまで。

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