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【小説】盤上の哲学(フィロソフィー)第5話「クラブ初日」

 朝は早く目が覚めた。準備を入念にし、職場ではほとんど剃らなかった髭も剃ることにした。いつから剃ってなかったかな、と考えながら伸びた髭をさすった。本社では、ITの会社とういうこともあり、特に容姿に決まりがなかった。さすがに人と会う場合には、襟付きの服をきたり、ジャケットを羽織ることもあるが、スーツとはほとんど無縁で、社内には短パンもいるような会社だった。もちらん髭などの頭髪規定もゆるく、金髪で髭を生やしている人間もたくさんいた。神田も髭を伸ばしており、定期的に短く揃えてはいたが、すべて剃るのは久しぶりだった。
 髭を剃ってみると、「新しい挑戦に向かう冒険」という気持ちが強くなった。久しぶりにスーツに着替え、集合時間1時間前にクラブハウスに着くように家を出ることにした。
「いってらっしゃい」
玄関を出ようとすると美々が声をかけてきた。満面の笑顔で送ってくれた。
「いってきます」
家族に見送られて、家を出た。

 クラブハウスには始業時間の1時間前に着いた。一人でクラブハウスについて、一周回ってみることにした。クラブハウスはグランドの真横にあり、グラウンドを見下ろす位置にある。グラウンドは天然芝が2面と少し小さめのグラウンドが1面あり、きれいに整備されている。クラブハウスの中には、事務所と食堂、監督室、ロッカールーム、トレーニングルームなどが備わっているが、建物自体は非常に古い。新日本システムズは30周年を迎えるシステム会社で、Nリーグに参戦は20年前のことだ。クラブの前身はエネルギー系の会社の社会人クラブだったが、手放すタイミングで新日本システムズが手をあげ、Jリーグに参戦した。その時に利用していた施設も買い取った形だ。クラブハウス自体は30年程度経っており、掃除していることで綺麗になっているが、歴史を感じる作りになっている。
 グラウンドに降りてみると、芝生の綺麗さに圧倒された。サッカー選手を目指していた時に踏みたかった芝だが、今はこうして別の立場として入ることが許された。ブルッと身震いした。誰もいない憧れた練習場に入った瞬間、なんども感情がこみ上げた。

 練習場の芝生はホームスタジアムであるバウンドスタジアム(バウンドは新日本システムズの主力商品である)の芝と同じ長さに刈り取られている。練習はトップチームはもちろん、下部組織(U18、U15など)も利用する。
 「新しいGMの神田さんですか?」
後ろから明るい声で話しかけてきたのはホペイロの石原みなみだった。20代後半の彼女はトレーナーの専門学校を卒業後、サッカーに関わりたいという思いで東京ピットブルズにホペイロとして就職した。日々の練習や試合への準備など欠かせない存在であり、明るくポジティブな性格はロッカールームでもムードメーカーとして活躍している。
 「はじめまして、神田秋といいます。石原さんですね?原田さんからはクラブハウスのことは石原さんに聞けと言われています。色々教えて下さい」
 「もちろんです!なんでも聞いてください。」
 「ありがとうございます。心強いです。さっそくですが、自分の席がわからず、どこに行けばいいか教えてくれますか?」
 「だからグラウンドにいたんですね!(笑)こちらです!」
だからグラウンドにいた訳ではなかったけど、知らなかったのは事実なのでありがたく後ろについて行くことにした。神田が使う強化部の部屋はクラブハウスの2階にあった。会議室が3部屋並び、その奥に社長室、監督室と並んで強化部の部屋があった。強化部の部屋に向かう途中、社長室の扉が開いた。出てきたのは前GMの竹内だった。少し驚いた顔をした竹内は一瞬間が悪そうな顔をしてこちらに向かって歩いてきた。
 「はじめまして。君が神田くんだね。頑張ってよ」
 ポンと肩に手を乗せ、そのまますれ違っていった。その一部始終に悔しさがにじみ出ていた。振り返るともう竹内はいなかった。日本企業にいればほとんどクビはないが、この世界では当たり前のようにクビがある。クビになった男の去り際が嫌に印象的だった。ふとグッと手に力が入っていたのに気がついた。自分もこれからその世界に入るのだ。クラブを去った前任者の姿に、身が引き締まった。

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