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【小説】盤上の哲学(フィロソフィー)第2話

青天の霹靂

 神田 秋(かんだ しゅう)は新日本システムズへの通勤時間にスマホで東京ピットブルズのハイライトを見ていた。昨日の試合だが、家族との時間を優先する神田にとって、電車の通勤時間が自分の趣味を全うできる唯一の時間となっている。
「また負けかー」
思わず口から出てしまった言葉に赤面した。満員電車の客にジロッと見られ、思わず下を向いて誤魔化した。東京ピットブルズは新日本システムズが筆頭株主のチームで、クラブの社長も歴代新日本システムズからの出向である。神田は東京生まれ東京育ち、親会社の社員ともあって、なんとなく東京ピットブルズを応援していた。

 神田にとってサッカーは特別なものだった。高校までサッカーに明け暮れ、地域の選抜にも入っていた。ただ、そこまでだった。プロ選手になれないとわかったのは中学生の時で、同年代の日本代表のレベルに触れ、自分との差に落胆した。すぐに目標を切り替えた。「サッカー選手は無理なら、違う方法で日本サッカーを強くしたい」神田が新日本システムズに入ったのはその思いが少なからずあったからだ。

 会社に入ってからの日々は目まぐるしく過ぎていった。入社当初はシステム販売をメインにしていた会社だったが、次第にグローバルの波に押されて業績を落としていった。当時保守的な運営をしていた社長は退任し、新しい社長はメディアを担当していた若手の小林 一朗太(こばやし いちろうた)になった。小林はスマホファーストを掲げ、会社を改革。メディア、ショッピング事業を一気に成長させた。神田も小林と一緒にメディアを担当していた。メディアではスポーツ部門の責任者まで担当し、スポーツに触れる日々を楽しんでいたが、4年前に小林に経営企画室に引き抜かれていた。

 経営企画室での仕事は激務だった。気分が変わりやすい小林は、すぐに新しいことに目をつけた。それは新事業だけにかかわらず、買収など多岐にわたった。失敗を恐れないのはいいが、経営企画室はいつも対応に追われていた。新事業の度に人事を決め、広報活動をし、買収の度に資金を調達した。何百億円と失敗したが、何千億円と儲けを出した小林を神田は尊敬していた。

 会社に着いた神田は迫り来る決算に向け、まずはタスクの整理にPCを開いた。すると社内チャットにダイレクトメッセージが届いていた。なんと小林だった。
「11時に部屋に来てくれ」
久々のメッセージでドキっとしたが、11時まであと5分しかないことに気づいた。「相変わらず急だな」と思いながら、「承知しました」と短くメッセージを打って席を立ち、部屋に移動した。
「失礼します」
「おお、来たか。時間がないので手短に言う。東京ピットブルズに異動だ。GMはお前がやれ」
「え? 今なんと?」
「聞こえなかったか? 東京ピットブルズのGMをやれ。嫌か?」
小林はいつも決まって難しいかどうかではなく、嫌かどうかを聞く。いつも見透かされた気がするのだが、実際見透かされているんだろう。嫌かどうかと聞かれれば、大概嫌ではないことを、彼は知っているのだ。
「難しいと思いますが、やらせていただきます。いつからですか?」
「それでいい。今日社内の引き継ぎをして明日クラブ社長の原田に会ってこい」
「承知しました。失礼します」
そう言って部屋を出た。脇汗がびっしょりだったことに気付く。「俺が? なぜ?」と考えても答えは出なさそうだ。ただ、興奮していないといえば嘘になる。サッカークラブのGMだ。普通の人生ではなれない夢の仕事だ。自分のデスクに戻り、仕事を整理し始めた。朝整理したタスクはそのまま引き継ぐことにした。

夢か現実か。歩いていても身体がフワフワするような、3月の始めの出来事だった。

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