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短編小説 『アストロノーツ』 #同じテーマで小説を書こう

この作品は杉本しほさんの企画「#同じテーマで小説を書こう」に参加しています。
テーマは「ブロッコリーを傘にする女」

下記作品の続編となっています。



ーーー

先週食べたクリームパスタが美味しかったと連絡が来たので、また作ろうかと返信すると、シチューが食べたいと返ってきた。
彼女はいつだって突然だった。そして自由だった。
翻ってその気持ちを私に向けてみる。
こんな風に自由でいたいな、と。

ーーー

「雨が降ってきたから」

ドアを開けると絹子さんは頭から靴まで綺麗にずぶ濡れだった。ぐったりとした髪の毛先から滴がぱたぱた落ちて、それが少しずつ玄関を雨模様に変えている。
傘の代わりになりそうだったのがこれしかなかった。というのが彼女の弁。左手にはスーパーの袋。右手にはブロッコリー。
どちらも絹子さんと同じく綺麗さっぱり濡れていて、みんなで一緒になって私の部屋に雨の匂いを連れてきた。

「意外と役に立つね」

絹子さんはブロッコリーを傘を差すみたいに持ち直して見せた。
表面にたくさんの水滴を纏わせているそれをくるっと回して、彼女もその場でくるっと回った。
冬の雨は暖かいんだよっていつか絹子さん言ってたっけ。

「でもずぶ濡れだよ」
「でも濡れなかった」
「どこが?」

全身に雨を纏わせた絹子さんを見ながら、私は尋ねた。
ちょっと意地悪そうに口角が上がっているかもしれない。けれど絹子さんはいつもみたいにつられてにやりと笑うことはなかった。

「瞳が」

そう言った絹子さんは、その濡れなかったという瞳で真っ直ぐ私を見つめた。

ーーー

絹子さんにタオルを渡すと、糸子ちゃんの匂いがするって言う。
洗濯したばかりだから柔軟剤の匂いだよって言ったらふるふると首を横に振った。ぱたぱたと滴が落ちていく。
絹子さん身体を拭くのが下手みたいで、何回も同じところにタオルを当てていた。私は受け取ったスーパーの袋を適当に冷蔵庫に入れると、まだ玄関でびちゃびちゃな彼女のためにもう一枚、今度は大きめのタオルを持っていった。

「糸子ちゃんが拭いてよ」

頭から靴まで一つも水気が取れていないのに、先ほど渡したタオルは茹でた昆布みたいになっていた。
絹子さんの頭に白いタオルを乗せてみたら、花嫁のヴェールみたいだって思ったけれど言わないでおいた。じゃあ誓いのキスでもしようかって言いかねないから。そして私はきっとそれを真に受けてしまいそうだから。
黙って絹子さんの髪の毛をタオル越しに撫でた。
拭いている途中で絹子さんが私の父みたいなくしゃみをしたものだから、お互いににやりと笑ってしまった。

ーーー

私の部屋着を着てくつろぐ絹子さんは、おおよそ女の子らしくないこの部屋にとても馴染んでいた。
たぶん彼女はどんな格好で、どんな場所にいたってすとんと居心地を見つけられる。羨ましいと思う。
手に持った絹子さんの服は、雨の冷たさの中に彼女の体温が含まれていて心臓の奥がずるりと疼いた。

「シチュー作るけど、ご飯とパンどっちが良い?」

洗濯機に私の匂いがするらしい柔軟剤をたっぷりと入れてやった。
絹子さん明日は私の匂いに包まれながら帰るんだよって思ったところで、彼女が今日泊まっていくものだと自然に考えている自分が可笑しくなってしまった。

「シチューだけがいい」
「後でお腹空かない?」
「そしたらまた作って」
「いっつも後で作るんだから今食べようよ」

絹子さんは燃費が悪いからすぐお腹が空く。そのくせ一回に食べる量はすごく少ない。
美味しいって思う回数は多いほうが得な気がする。いつか絹子さんはそう言っていた。今日は絹子さんが言ったことやけに思い出す日だな。

「じゃあパンがいい」

ーーー

食後に窓の桟に腰掛けて煙草を吹かす絹子さんは、一枚の絵として収まってしまいそうなくらい様になっていた。
それを眺めながら同じ銘柄を吹かす私は、いかにもくたびれた女って感じがして、嫌になってしまった。
私、嫌なところばっかりだ。

「糸子ちゃん、みて」

絹子さんは外の方を見ている。
私は自分の煙草を灰皿代わりの缶ビールに突っ込むと、彼女に近寄っていく。
視線を絹子さんが見つめる先に合わせると、夜が広がっていた。
今にも消えそうなくらいに細い月と、無数の星が夜の空に沈んでいる。赤く明滅する星になり損ねた飛行機が、夜から逃げるように右から左へと流れていった。

「あれが私の星」

絹子さんが指さす。大小様々な星がその先にはあったけれど、きっと絹子さんが言う星は一番綺麗に光っているのだろう。

「私あの星からやってきたの」

だらりと腕を下げた絹子さんは、視線を私へと向けた。先ほどと同じように真っ直ぐな瞳で私を見つめた。
絹子さんの黒目の中に星が見えた。絹子さんは実在しない夜空を瞳の中に隠し持っていた。過去の光なのかもしれない。未来の輝きなのかもしれない。
絹子さんの瞳に宿る星は、解き明かされることを誰も望まない世界の秘密みたいだった。

「って言ったら糸子ちゃん笑う?」
「笑わないよ」

遠い場所にいるんだという確信があった。
私は繰り返した。

「笑わない」

絹子さんは笑った。いつもみたいなぎこちない笑い方ではなかった。とても自然に、とても美しく笑った。

「ありがとう」

窓の桟から腰を浮かすと、絹子さんは私に腕を回した。
彼女の体温が私の中に染み込んでいくのが分かった。

「糸子ちゃん、もう大丈夫だね」

耳元で絹子さんが囁く。
寂しさが喉の真下から生まれた。
私は絹子さんの身体を強く抱いた。

「いやだよ」

声が震えているのが分かる。
何故だろう。こんなに近くに彼女はいるのに。
星のように遠く感じてしまう。

「糸子ちゃんはもう大丈夫だよ。これから先もきっと大丈夫。だから」

私、帰らなきゃ。
最後の方は空気の擦れた音のように弱々しかった。

「……いやだよ」

身体中の熱が私の視界に集まってきた。
下の方から波のように揺れ、瞬きと同時に雨になった。
頬を伝う滴は、絹子さんがいつか言った冬の雨みたいだった。

「今までずっと辛かったんだよね」

その言葉が、私の中の暗い部分に光を当てた。
星のように静かで優しい光だった。
何か言おうとして、何も言えなかった。
声が出なくて、首を縦に振った。
何回も何回も、首を縦に振った。
同じ数だけ絹子さんは私の頭を撫でた。

「何が辛いのかもわからなくて、辛かったんだよね」

そうだ。
私はずっと辛かった。
言葉にすればそれだけのことなのに、一言も口にしたことはなかった。
忙しなく過ぎる日々も、その中で生まれる関係性も、いつの間にか途切れた連絡も、擦り切れるような期待の圧力も、押し返せなくなった諦念の重みも、全部辛くなかった。
自分よりも辛い人はいるという事実に、私の辛さは埋没してしまった。
消えたんじゃなくて、埋めて隠しただけだった。
楽しさも喜びも確かにあるのに、足元の感情が邪魔をしていた。
誰もが辛い思いをしているという言葉に、私の辛さは形を失ってしまった。
形を失くしても尚、靄のように私の全てを包んでいたんだ。
そうだ。
私はずっと辛かった。
言葉にすればそれだけのことなのに、一言も口に出来たことはなかった。
その度に腕についた傷の本数が増えていった。

「もう大丈夫」

絹子さんは私を抱きしめたまま、顔を耳元から私の顔を真っ直ぐに見られる位置に移した。
私のぼやけたままの世界でも、絹子さんはやっぱり綺麗だった。

「私ずっといるから。夜にしか会えないけれど、朝になっても季節が変わっても、ずっといるから。雲がかかっても、雨が降っても、その上で私は見てるから。瞬いたり、たまに流れたりして、星としてずっと見ててあげる」

「いやだよお」

上ずった声は同じことしか言えなかった。
いつかそんな予感はあったけれど、急過ぎる。
ああ、でも。
私は身体の中に溢れていた寂しさがゆっくりと溶けていくのを感じた。
絹子さん、いつも突然だからなあ。

「糸子ちゃん、左腕貸して」
「え?」
「おまじないしてあげる」

私は抱きしめていた左腕を絹子さんの前に差し出した。
絹子さん私の手首をさすった。
そこにある傷跡を何度も何度もさすった。
そしてそっと唇を当てた。

「今までの分は貰っておくね」

左手首に刻まれた私の辛さは無くなっていた。
私の中にある心と呼ばれる場所が軽くなった。

「もう大丈夫だよ」

言って、絹子さんは私を強く抱いた。

「絹子さん」

言って、私は絹子さんを強く抱いた。

「糸子ちゃん」

このまま一緒に眠れたらなと願った。思えばこんな時、私達は名前ばかり呼び合って、言いたいこと何も言わないままだった。
今日は言おう。
ちゃんと言葉にして、声に出して、言おう。

「綺麗な腕なんだから、もうしちゃ駄目だよ」
「うん」
「髪の毛さ、パスタみたいなんだから短くしちゃ駄目だよ」
「うん」
「雨が降ってもブロッコリーは傘になれないからね」
「うん」
「歯ブラシはちゃんと持たないと口内炎できちゃうからね」
「それは絹子さんだけだよ」

抱き合ったまま、私達は笑った。
大きな声で馬鹿みたいに笑った。

「絹子さん」
「なに?」

「ありがとう」
「どういたしまして」

次に瞬きをした時、絹子さんはそこにいなかった。
奥の方で洗濯機が絹子さんの服に私の匂いを染み込ませている音が聞こえた。


ーーー

時折思い出したように私はクリームパスタとシチューを作る。
女の子らしくない部屋は相変わらずだったけれど、もう女の子なんて言える歳でもなくなったので、それも気にしなくなった。
鍋の中で踊り狂う二人分のパスタに差し水をする。
シチューに入れる野菜を流しで洗う。
人参を洗い、じゃが芋を洗い、ブロッコリーを持つ。

ねえ。絹子さん。
私、大丈夫だよ。
きちんと生きていけてるよ。

それはあの日、絹子さんが傘代わりにしていたブロッコリーと同じくたくさんの水滴を表面に纏わせていた。


ー了ー



ーあとがきー

前回は杉本しほさんとのコラボということで、僕としほさんの二人でした。
「テーマは踊り狂うパスタでどうですか?」とDMが来た時は、本当に困りました。
今回はより多くの方も、ということでこの企画はスタートしました。

テーマも前回よりパワーアップ(?)しまして「ブロッコリーを傘にする女」
どっからこんな発想が出てくるのか不思議でなりません。

けれどこの不思議なテーマがなければ前作の『ガールフレンド』と今作の『アストロノーツ』は生まれませんでした。
改めて杉本しほさんにはお礼を言いたいと思います。
ありがとうございました。
誘って頂いたことも、僕が考えつかないテーマをくれたことも、全部感謝しかありません。

また前作に続き、ヘッダー画像にはkei02さんのイラストを使用させて頂きました。
ありがとうございます。


糸子ちゃんと絹子さん。
僕は結構好きなので、いつか長いお話として書きたいなと思っています。もちろんパスタは踊り狂いますし、ブロッコリーを傘にします。

ここまで読んでいただいた皆さん。
ありがとうございました。
感想とか頂けたりするとパスタではありませんが、僕が踊り狂います。

おしまい。

貴方のその気持をいつか僕も 誰かに返せたらなと思います。