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短編小説 『昇花』

名も知らぬ種を埋え、芽が出て、すらすらと茎を伸ばす。
その間に私は花曇りだからと大学を辞め、花霞だからとアルバイトも辞め、一人の人間に戻った。
人住まぬ山の木々が、今この瞬間、風を受けて葉を流していることを思う。
遠き太平の沖で、今この瞬間、春陽を海面に携えていることを思う。
一人の人間に戻った私は、想像上の山海と同じだ。
この街のこの部屋で、今私という人間がどう生きているかを知る人間はいない。
すらすらと伸びた茎の先に小さな蕾が生まれた。
花の名前は「まくう」という。
妙な名前だと思ったが、当人がそう名乗ったものだから、私もこの花を「まくう」と呼ぶことにした。

ーーー

生きていくために必要な事と重要な事とを天秤にかけてみたら、どちらに傾くのだろうかと「まくう」に水をやりながら考えていた。
衣食住は必要。お金は必要。睡眠も必要。電気もガスも水も。
並べると随分と下らないものばかりだ。
そんな下らないものしか並べることの出来ない私自身は尚のこと下らない。
生きていくために重要な事。
そう独りごちて、必要の皿が現実という地面にめり込んだ天秤を想像し、これが私なのだと苦笑した。一人の人間という単語は、一人の現代人という単語にすげ変わった。
必要の重みで高く弾き出された、名も知らぬ重要な事は磨り硝子のような判然としない春の上空高くで雲になる。
その空の中を風がそよぎ、雨が通り、雲雀が鳴く。
大切なものは空に昇る。
「まくう」は水を浴びて気持ちよさげに一つ、また一つと蕾を身につける。
つけるだけで一向広げる気色はない。
雲雀は春を謳歌し口を大きく開けている。
春の歌だ。
きっと雲雀は分かっている。
この春に歌うのが重要なの事なのだと。
「まくう」は飲めるだけの水を飲むと眠った。
呑気なものだと思う。
私は自分の食事を用意するためにキッチンへ向かう。
冷蔵庫の中身を見て、作るものを考え、明日は買い物に行こうと決める。
生きていくために必要な事ばかりを消化して、今日を終わらせる日々が続く。
外は春の歌で満ちている。

ーーー

「また少し痩せたんじゃない?」
呆れたような口調で彼は私の裸体を眺めた。
見慣れた自分の肉体だったが、この部屋の姿見に映る私は確かに貧相だった。少食ではあるが、きちんと食べているはずなのに、私の身体には豊かさが訪れない。彼を部屋に残し、シャワーを浴びる。
口にした栄養はどこにいってしまうのだろうか。
大切なものは空に。
そう考えて、可笑しくなって、湯量を強くした。
薄く、肉のつかない身体に纏わりつくものが削ぎ落とされればいい。
削いで、削いでいって今よりも細くなった自分の身体は、それでも空には昇れない。
「美味しいものでも食べるといい」
部屋に戻ると、彼はそれなりに厚い封筒を差し出した。
私はそれを黙って受け取る。
最初は断ったが押し切られ、二度目にはお礼を言ったら嗜められた。
「お礼を言う時を間違えてはいけないよ」
それ以降は今日のように黙って受け取ることにした。
黙って受け取ったそれを鞄に入れる私を、彼は満足そうに眺める。
「美味しいものでも食べるといい」
最初の頃から封筒を渡すときの彼の台詞は変わらない。
彼と会うときは身体を重ねることもあったし、何もせずに終わることもあった。そして私とは決して食事をしなかった。
ただ会い、肌を重ね、あるいは重ねず、ほんの少しの会話を交える。
「そのまま痩せていくと最後には消えてしまうよ」
彼は冗談めかして静かに笑っていたが、私は笑えなかった。笑えたほうが随分楽だろうと思う。
「消えてしまえたらいいんですけどね」
「それは困るな」
「何故です?」
「君との時間は大事だからね。僕にとっては」
ゆっくりと煙草を吹かしながら、まだ湿り気の残る髪をかきあげた。
間接照明に微かに光る白髪に、彼の生命を感じる。
「大事って」
「ん?」
「重要ってことですか?」
「重要?」
「はい」
ここ数日私の頭の中で燻っていること。
「それは僕にしか分からない」
「どういうことですか?」
「言葉に囚われてはいけないよ」
そう言って彼は子供にするみたいに私の頭を撫でた。
「今日はありがとう。また連絡するよ」
そうしてゆっくりとした口調で終わりの合図を告げた。
私にはお礼を言わせないくせに、彼は「今日はありがとう」と言う。
彼にとってはお礼を言う時なのだろう。
それ以外のことは私には何もわからなかった。
私は立ち上がるとお礼も言わず、ホテルの部屋を出た。

ーーー

隣人が流す幻想ポロネーズを「まくう」と二人で聴いている。
先日の「食事代」で私はすくすくと伸びる「まくう」のために少し値の張る鉢を買い、土も新しいものを入れてやった。
頗るご機嫌な「まくう」はショパンに揺られ、また一つ蕾をつけた。
日差しはゆっくりとこの街に降り注ぎ、その一部をこの部屋も享受している。
ちらちらと春の埃が輝き、その一片一片が、今を生きる人間として維持するために私の外皮になっていく。
たぶん、そうやってここまで大きくなってきたのだ。
空から落ちてくるものが少しずつ、本当に少しずつ私の身体に纏わりついて今の私を作り上げたのだ。
隣人はこの曲以外を流さない。
きっとこの音色で隣人自身を作り上げているのだろう。
「言葉に囚われてはいけないよ」
彼の声で、彼の口調で「まくう」が言う。
その声はピアノの旋律にぴたりと添っていた。
来週は少し天気が崩れるらしい。
昨日見た予報を思い出した。
当たるかもわからない先の物事を皆は知りたがるけれど、今を生きることとどう繋がっていくのだろう。
自分が大学とアルバイトを辞めた理由を振り返る。
ああ、思えば随分と天気に左右されている。
自分が背負うのは嫌なのだ。
だから天気とか季節とか、あるいは時間そのもののせいにして、今日を明日に繋げる様々なことを委ねるのだ。
委ねるものは触れられないものがいい。
存在を認知することはできるけれど、決して届かないものがいい。
「けれど言葉を蔑ろにしてはいけないよ」
それは彼の声でも口調でもなかった。
「どういうこと?」
私が問い返しても「まくう」は答えなかった。
独奏曲が部屋に差し込む日差しと溶け合っている。

ーーー

「どうして辞めっちゃったのさ」
しっかりと春に身を包んだ友人はやや大げさにため息をついた。
髪の色から、軽やかな靴の先まで、彼女は春として今テーブル越しに私と相対している。
「まあ、色々あって」
「色々ってなにさ」
「うーん」
私はグラスに刺さったストローで氷を弄る。
花曇りだったからと言ってもきっと彼女は納得してくれない。けれどそれ以外の理由を私自身が持ち合わせていなかった。
あの日、家を出て、バスに乗り、構内に咲く桜とその延長にあった空を見た時、私は大学を辞めようと思った。
それが重要な事のように思えたのだ。
振り返った今も、そう思う。
アルバイトを辞めたのも同じだ。
けれどそれからというもの、何が必要で何が重要なのかわからなくなってしまったのも事実だ。
自分でも上手く言葉に出来ないものなのに、彼女が納得のいく説明なんて出来ようはずもなかった。
「まあ、いいけどさ」
「ごめんね」
「謝られても困るけど……」
甘そうなラテの入ったカップを両手で包むと、彼女は私を正面から見据えた。
「大丈夫?」
「え?」
「少し痩せたんじゃない?」
先週会った彼のことを思い出したのは少しの間だった。
彼とのことは誰にも話していない。彼との関係はどこか現実離れしているというのだろうか、私の日常にまるで馴染んでいなかったし、こうして友人を目の前にしているときに出てくる人物でもなかった。
「そうかな」
「そうだよ。あんたただでさえ細いのに、そんなんじゃそのまま消えちゃうんじゃない?」
私は彼女から少しだけ目を逸らした。
彼に返した言葉がそのまま出かかったが、アイスコーヒーで無理やり押し込んだ。
「そんなことないよ」
「そりゃそうだけどさ。何? なんか悩みとかあるの?」
興味や好奇心だけで聞いているのではないと、短い付き合いだけれど私にはわかっていた。彼女は本当に私のことを心配してくれている。
悩みがないと言えば嘘になる。
そもそもこれが悩みなのかすら、私には曖昧だった。
私が内包する感情はあまりに茫漠とし過ぎていて、言葉にして誰かに話すことなんて、とてもできなかった。
話せたとしても、きっと世界中の誰であれ、この心情を解し得ることはできないだろう。
「それは僕にしか分からない」
また彼が浮かぶ。幻想のような彼との時間が、私の今を侵食してくる。
「大丈夫だよ」
はっきりと言葉にする。心配してくれる彼女と、私の幻想に言い聞かせるために。
「本当に、大丈夫だから」
「ふーん。ならいいけどさ」
店内に流れる明るいジャズの音が、私を酷く疲弊させた。
春が飽和している。
目の前にいる彼女も、他の客も、店内も、店外も、春で埋め尽くされている。
部屋に帰った時、隣人がまたショパンを流していてはくれないだろうか。「まくう」は今このときも、すくすくと伸びているのだろうか。
これ以上成長されると、少し困るなと思った。今でも私の背丈くらいはある。
蕾の幾つかは結局蕾のまま枯れ落ち、そうして新しいものも増えている。
彼女の近況や、大学の講義の話、愚痴を装った恋人との惚気話などに、ぼんやりと相槌を打ちながら、私はこの飽和した春から逃れてしまいたかった。
春が飽和しているのに、雲雀もショパンも、この場所には存在しない。

ーーー

彼からの連絡が来ないまま一ヶ月が経った。
別に珍しいことではなかったが、彼からの「食事代」だけで生活している今の私にとっては、否が応でも現実問題として彼のことが浮かび上がってくる。
あの日以来、友人からの誘いも二度程あったが、何かと言い訳をつけて断っている。
春の盛りも随分と陰りが見え、よりはっきりとした質感を持つ次の季節の予兆が其処此処に表れ始めた。
一週間前から「まくう」は喋らなくなった。
眠っているわけではないが、私が何を言っても答えてくれない。
私の背丈を少し追い越した辺りで成長は止まり、残った蕾はとうとう一つだけになった。
隣人はどこかに越したようで、幻想ポロネーズが流れなくなった数日後にはアパートの入口に「入居者募集」の看板が設置されていた。
昨日が今日に変わるように、季節が次へと流れていくように、私も、私の周囲も少しずつ、けれど確実に変わっていった。
変わらないと思っている私の内実ですら、私に気付かれないように変化しているのだろう。
ここ一週間部屋から出ていない。
自分でもよくわからないけれど、自分以外の人間と接したくなかった。
けれどそうやって過ごすには、時間はあまりに長すぎた。
喋らなくなった「まくう」を眺めていても、時折本を開いてみても、時間は驚くほど進まなかった。
テレビを眺めていればとも思ったが、画面の向こうには人がいる。
音楽にも人の歌声がある。
こんな心持になるのなら予めショパンでも買っておけばよかったと、強く後悔した。
今、私がこうしている間にも。
人住まぬ山の木々が、今この瞬間、風を受けて葉を流していること。
遠き太平の沖で、今この瞬間、春陽を海面に携えていること。
そんなことを思う時間が増えた。
思わなければ時間は過ぎなかった。
そうしている内に、生きていくために必要な事が、削ぎ落とされていく錯覚があった。
住む場所も、着る服も、食べるものも、お金さえも、必要の皿の上から消失していき、天秤は平衡を取り戻そうとしていた。
生きていくために、なんて随分と穿った見方のように感じられた。
そんな枕詞が無くとも私は。
私の中に潜む判然としない影のような感情が、緩やかに満ちていく。
「言葉に囚われてはいけないよ」
その冷たい心温と、春の温みが衝突し、露のように私から零れ落ちたとき、「まくう」が言葉を発した。
「必要も重要も、それ自体には何の意味も無いんだ」
その声は残された一つの蕾から発せられている。
「意味は無い。けれど与えることはできる。それは言葉を作った人間じゃない。君が、君自身が意味を与えるんだ。君にとっての必要は? 重要は? 彼からの「食事代」は? 友人との歓談は? そもそも君にとっての何について必要で、あるいは重要なのかな」
「私の……」
春はひっそりと夜に隠れている。
眠っているのではない。人も街も、星さえも。
私と「まくう」以外、皆、この夜にじっと潜んでいる。
「それは君にしか分からない」
蕾がゆっくりと開いていく。
「君が、君として探っていくんだ。潜っていくんだ。それには言葉が必要で、けれど言葉に囚われてはいけないんだ」
蕾から開かれた花弁が静かに滲んだ。
私の瞼から再び感情が零れ落ちるのと同時に、その一片が土に落ちた。
「君は、君として生きていく。死んでいく。それには言葉は重要で、だから言葉を蔑ろにしてはいけないんだ」
落ちた花弁を拾い上げる。
自分の花弁には毒があると言って、「まくう」は次の日に死んでしまった。

ーーー

春が終わった。
あれほど朧気だった世界の輪郭が随分とはっきりとしてきた。
雲雀の声も消え、梅雨の最中で蝉噪が始まろうとしている。
締め切った部屋にもはっきりとした雨音が届く日に、私は外に出た。
傘を差して、バスに乗る。
久しぶりに触れた世界は驚くほど呆気なく私を受け入れた。
そもそも受け入れてなんていないのかもしれない。たぶん世界なんて広すぎるものは私が作り出した空想で、仮に実在したとしてもきっと私になんて興味もないのだろう。
通わなくなってそれほど経ったわけではないのに、大学に入ると懐かしい空気を感じた。
あの日、花曇りに見た桜は、これから来る季節に合わせるように力強い青々とした命を携えていた。
雨が葉を叩く。
差したビニール傘を叩く。
今この瞬間、人のいない山にも、海にも、この雨が降り注ぐことを思う。
花冷えだ。
私は傘越しに空を仰ぎながら季節外れな感想を抱いた。
中途半端な時間のせいか、構内は存外静かだった。友人は今、あの中で眠そうに講義を聴いているのだろうか。
しばらくじっと上を見つめていた。
開いた傘に無数の雨が落ちる。
傘下に雨音が反響する。
大切なものは空に昇る。
私はもう必要も重要も大切さえも、考えなくなった。
いや、囚われなくなった。少なくとも今この瞬間だけは。
空に昇ったものが、時折こうして降りてくる。
雨として、雪として、あるいは目には見えない小さな何かとして。
やがて傘越しに見る雨空は、私に奇妙な錯覚を抱かせた。
雨が降り注いでいるのではない。
私が、私自身が、今この雨空へ昇ろうとしているのだ。
大切なものは空に昇る。
空から落ちてくるものが少しずつ、本当に少しずつ私の身体に纏わりついて今の私を作り上げたのだ。
だから錯覚だとしてもこれが正しいのだ。
名も知らぬ種を埋え、芽が出て、すらすらと茎を伸ばす。
その間に私は花曇りだからと大学を辞め、花霞だからとアルバイトも辞め、一人の人間に戻った。
やがて蕾をつけ、花が開き、それが枯れた後に、私は花冷えだからと、今空に昇ろうとしている。

忍ばせていた「まくう」の花弁に、私はゆっくりと口吻をした。

ー了ー





ーーー

こちらに参加させていただきました。
ありがとうございました。

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貴方のその気持をいつか僕も 誰かに返せたらなと思います。