見出し画像

#幸せをテーマに書いてみよう

ある男が言った。

「私の心は風邪を引いています」

なんのことだろう。さっぱり話が見えてこない。
続けて男は言う。

「医者がそう言うんです。間違いありません。私は心の風邪なんです」

そうかそうか。それはお大事に。
男の顔は少しだけ紅潮としていた。まあ心の風邪というくらいだし、おおよそ身体の方にも熱を孕んでしまっているのだろう。
しかしどうだろうか。男の表情はとても朗らかだ。とても風邪を、心の風邪を引いているようには見えない。見えないからこそ心の風邪だなどと医者も適当な事を言ったのかもしれない。
心だとかイメージだとか、目に見えないものにあれこれと名付けたり分別したがる人間はおおよそ詐欺師と相場が決まっている。
男は手に持っていた袋を自分に見せる。
手にしていた袋ががさりと音を立てた。

「見てください。こんなにも沢山の薬を頂きました。私は心の風邪と決まったんですからね。この薬を飲めば良い塩梅になると言うことでしょう」

男の顔はやはり朗らかそのもので、初めて恋を知った少女、雪に埋もれた新芽の如く、春の訪れを纏っている。
ああいけない。男は騙されているのだ。
助けてあげようか。自分はそこで一寸考えた。

「君の心の風邪はどんな具合だい?」

自分が尋ねると、男はやっと聞いてくれたかと待ちわびたように、それはもう饒舌に男自身の風邪の症状を語った。
曰く、不安と呼ばれる瘡蓋がベタベタと内側に出来ていると。
曰く、涙が瞳からではなく内側で流れるのだと。
曰く、ハートと呼ばれる機能が錆びついて動けないでいると。
曰く、それら全てが肉体の活動を阻害していると。
男の熱心に語るそぶりを見ていると、どうも本当なのかはにわかに信じがたい。自分は思う。
ならば、その瘡蓋を引っ剥がしてしまえば良いのではと。
ならば、どこを流れようと流れ落ちるのならば良いのではと。
ならば、そのハートと呼ばれる機能に油でもさしてやれば良いのではと。
ならば、いっそこうして外に出ずに家で横になっていれば良いのではと。
果たして男にそう言ってみると、男は烈火の如く喚き怒った。

「あなたは何もわかっていませんね。私は心の風邪なのです。心の風邪なのです。医者がそう言ったのですよ。あなたは医者ですか。違うでしょう。あなたに私の心の風邪の処方箋など出せやしないのです。私は医者の信託によって晴れて病人になったのです。私をただの怠惰な人間だと、情緒が覚束ない人間だと、社会に対し盲な人間だと、そう言った彼らも医者ではなかった。あなたもそうだ。医者が心の風邪だと仰ったのです。このように薬を沢山とお出しになってくれた。これで私は大手を振って病人です。あなたは医者ですか。違うでしょう。あなたにこんな沢山の薬は出せまい。そんな場当たり的な金言なんて私はもう聞き飽きたんです」

一息にそこまでまくしたてると、男はガサガサと袋の中を漁り三錠ほどの薬を飲み込んだ。袋の中には飲料も入っていてそれも一息に飲み干してしまった。はじめこそ男は怒りに震え、顔はアレクトさえも恐れ戦く様相であったがしばらくすると薬が効いてきたのだろう。ペルセポネがもたらす春の豊かさを再びその顔に取り戻した。

「落ち着いたかい」
「ええ。取り乱してすみません。何せ心の風邪なのです。どうもハートの機能が錆びたまま乱痴気を起こしたようで。何せ心の風邪なので」

余程、医者に心の風邪だと診断されたことが嬉しかったのだろう。繰り返しその単語を使う男は、まるで喝采を浴びる英雄が如くに堂々としている。
良い詐欺師に引っ掛かったのだなとこれは言わないでおいた。

「それで君の心の風邪というのは全治に幾時を費やすんだい?」
「いえ、全治はしません」

またおかしな事を言う。風邪が不治の病など聞いたこともない。やはり悪い詐欺師だったか。

「寛解と言いましてね。私の心の風邪は一時的には好転するのですが、完治には至らないのです。私はずっとこの心の風邪と付き合なければならない」

なるほど、そんなものか。しかし期せずして人生の伴侶と言って良いのだろうか、焼印と言ったほうが良かろうものを押し付けられたくせに男には動揺の皺一つ刻まれていない。自分には随分と不気味に映る。

「それは大変だろう」
「ええ。しかし心の風邪ですからね。致し方ないでしょう」

嬉々として語るその戯曲のどこに致し方ないというフレーズが入るのか、自分には検討もつかなかったが、男が満足ならそれで良しとした。

「それで君はこれからどうするつもりだい」
「どうもしませんよ」
「どうもしないとは」
「今まで通りということです。眠りたい時に寝て、働きたい時に動き、話したい時に口を開きます。今までの私はそれを非難されましたが、それは私が健常であると思われていたからです。今の私は心の風邪ですからね。病人の療養だと言ってしまえば医者ではない彼らはもう何も言えません」

男は幸せそうだった。

その後、男と幾つか言葉を交わし別れた。
ふとあの男は何者なのかという疑問が頭をよぎる。
疑問が合点になったのは宅に着いてすぐのことだった。
なるほど、鏡の中の自分は随分と朗らかに笑っているじゃないか。
手にしていた袋ががさりと音を立てた。

ー了ー

こちらの企画に参加しました。
あきらとさんいつもありがとうございます。


貴方のその気持をいつか僕も 誰かに返せたらなと思います。