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思春期は図書室で生き延びた(下)

本稿は、とある教育関連の会社のサイトのために書いたもので、「学校の図書室」について語ってます! こっちでも載せていいよーと許可をもらったので公開します(もともと掲載予定だったサイトではまだ公開されていませんのでこれが本邦初公開!・笑)。いつもとちょっと文体(語り口)を変えていますので、その辺もあわせてお楽しみくださいm(__)m

思春期は図書室で生き延びた(上)
https://note.com/iincho/n/n9a28a2710b4f

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3.書棚のジャングル探検

本を1冊読むと、アメーバ状に興味が出ていて、いろんな方向へ広げていける。
もともと、知識というのはそういうものですよね。

例えば、
少女漫画『ベルサイユのばら』(池田理代子)を読んだ
→マリー・アントワネットについて知りたくなった
→図書室に、アントワネットさまの伝記本がある
→その時代のドレスやファッションにも興味出てきた
→図書室に、中世から現代までのファッション史の本がある
→歴史ってたのしい!!と世界史や世界地理が好きになる

こういう感じで、自然に図書室で知的雑食性を育てられた(笑)
最低限の教養も身に着けられたと思う。

母校の図書室は、私にとって、知識と芸術のジャングルでした。

今思い出しても、あの図書室はジャンル無差別、変な本がたくさんあったな…。
当時の同級生と話すと「うちの図書室はおかしかった」で盛り上がる。
小説、雑誌、古典、アート、科学(講談社ブルーバックス系)。
赤川次郎、村上龍、村上春樹、山田詠美などなど、当時の流行作家の小説。
コバルト文庫シリーズ。
ゴルチエとか、イッセイミヤケのアートワーク集。
そう、『ドグラ・マグラ』もありました。読んだ人は必ず気がおかしくなる、というふれこみの、古い小説です。私は怖くて読めませんでしたが。常に誰かが挑戦していました(笑)

あと、なんでか澁澤龍彦がすごく充実していたんだった(笑)

私はミシマより先に澁澤にはまり、(歪んだ)西洋史を勉強しました。
自分でも澁澤龍彦の文庫本を買って、自分の部屋に堂々と置いていました。
それは梶井基次郎の「檸檬」のようで。
親は(ていうか普通に学校生活過ごしてたら)澁澤なんて知らないし、見てもわからないのです。
私が本を読んでいることについても、成績さえ良ければ何も言わない。それどころか、本を読むことを「良いこと」だと思っている!
私の部屋の本棚には、どれほど「危険思想の書物」が詰まっていたことだろう。
本(小説)を読むことは、親を疑い、常識を疑うこと。
基本的に、文芸書はすべて「悪書」なのです(笑)

そういう意味でも、子どもが本(小説)を読むことは大事なことだと思う。
今この瞬間の実利とか世間の常識ではなく、「普遍的な真理」を直感的につかむ助けになるから。

そして、ジャングルの奥地で同好の士に出会うこともある。

当時、図書室の本には1冊ずつ「図書カード」がついており、借りる時に、その図書カードに自分の名前を書いていました。それとは別に、個人カードもあって、そこに借りる本のタイトルを書きます。これを一緒に保管しておけば、誰がどの本を借りているかが分かるのです。
なので、本を借りる時に「図書カード」を見ると、「今まで借りた人の名前」がわかったんですね。まあ、今だったら個人情報とか、読書の秘密がーっとなったのかもしれませんが、当時はおおらかでした…。

中学のある時期、私は、柴田錬三郎の『眠狂四郎』シリーズにはまり、(時代小説です。なんであったんだろう??)とにかくひたすら眠狂四郎シリーズを借りまくっていました。
しばらくして、蔵書カードに私が名前を書こうとすると、いつも同じ人の名前があることに気がつきました。

「〇〇あやの」。

まさにジブリの「耳をすませば」!!!(うち女子校ですが)
で、1学年200人くらいしかいませんでしたから、そのうちついに「〇〇あやの」氏と対面する機会がありました。

私  :あなたがあの、あやのさん?!
あやの:〇〇(私の名前)さん? 私もいつも同じ名前の人がいるなあと思ってた!
2人 :よくもまあ、あんなマニアックな本を!!

お互い様だよ!!!! 
うら若い花の中学生同士が、時代小説(しかもシバレン)で意気投合(笑) 
ということで、あやのちゃんとは初対面から初対面じゃなかったので、(恋とまではいきませんでしたが)とーっても仲良くなり、いろんな深~い話をしました(笑) 

そういえば、卒業時に、司書さんからはみんなにプレゼントがありました。
それは、6年分の個人カード。ちゃんと封筒に入ってた。200人分。
そう。個人カードには、6年間に借りた本のタイトルがずらりと並んでいる。
嬉しかったです。読んだ本リストは、私の図書室での「軌跡」に思えたから。

4.心のオアシスの大切さ

私の感性の一部は、確実に、読んだ本によって育くまれたといえます。

なお、本を読み漁ると、副次的に、文章読解力と基礎教養も身につくと思います。だいぶ助けられています。

でも本を読むことの一番の意義は、国語の成績が良くなるとか、小論文が書けるようになるとか目先のことじゃなくて、「子どもの休み場所(逃避場所)が1つ増える」ということなのかなと思っています。

読書を通じて会える、著者(生きていても死んでいても)や架空のキャラクター(読まれている間、読者の頭の中で”彼ら”は着実に生きています)に、どれほど救われたことだろう。

思春期はどんな子どもにとっても、「危うい」時代です。

それをなんとか乗り越えて、私が今も馬齢を重ねていられるのは、
司書さんが守り人だった図書室が、私にとって精神の逃げ場だったからです。
本を読んでいる時間こそが、私にとって生きている時間でした。あの頃は。

こういう休み場所は、たくさんあっていいと思います。
思春期の私にとって親や家庭は安らげるところではありませんでした。
子どもによっては、休み場所は「図書室」ではないのかもしれません。
ただ私にとって、それは図書室であり、読書をしている時間でした。

安らぎを得られる大人がいる、休める場所ということがどれだけ大切なことか。
とにかく無事に子どもが思春期を乗り越えられれば、それでいいと思います。

私が通った図書室は、今はもうありません。
母校の校舎は全面的に建て替えられたそうです。
図書室は、おそらく新校舎に移されたのでしょう。
古い木の書棚も、新品に取り換えられたかもしれません。
でも、私にとっての図書室とは、いつまでも、あの図書室なのです。

記憶の中の図書室には、今も午後の日差しが薄くさしこみ、開け放たれた窓からテニス部の声が聞こえる。私はまだ見ぬ本を探している。



これからも書き(描き)続けます。見守ってくださいm(__)m