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日々と写真,1996年~1997年4月

1996年度というのは一つの転機だった。県立保土ケ谷養護学校(現、県立保土ケ谷特別支援学校)に転勤となった。
養護学校は、生徒数が少ないというだけの理由で事務職員は最低限の4人(うち1人は事務長)しかいない。ところが仕事量が絶対的に多い。国費のつく補助金と助成金(ってどこが違うんだい?と思ったが、とにかく、そういう細々としたルール)を申請する事務があったり、スクールバスの委託契約があったり、全館暖房があるので灯油の納入業者を入札で決めたり、ボイラーの管理委託業務があったり……とにかく事務そのものが大変なのだ。事務職員だけではない。教員も、生徒そのものから目を離せない上に保護者対応も多忙を極め、加えて授業の準備となると夜中9時10時まで残業しているのは当たり前のことだった。
私もしばしば横須賀線の終電を逃し、横浜駅までタクシーを飛ばして東横線の終電に駆け込むことが何度もあった。そのタクシー代は自腹。通勤手当なんて電車と市バスしか出ない。学校の事務室で徹夜したことも2回ある。そして、徹夜して仕上げた書類を翌日教育庁に提出に行くと、その場でミスを指摘されて全て没にされたり……

発狂しそうだった。私は、この状況は保土ケ谷養護だけではない、という見通しを立てた。行政改革、経費削減で、公務員の仕事はどんどん厳しくなる。

私は10月の(人事異動の)「意向申告書」を提出しなかった。
そして辞表を提出した。事務長は「公務員を辞めて小説家になると言った人もいたけれど、その後は音信不通だし、無茶なことはやめなさい」と引き留めたが、私は言い返した。「私はこの保土ケ谷養護の事務室に、未来の県機関の姿を見ています」と。

ただ、この年はそれ以前に比べて写真を多く撮っていた。1997年5月以降と比べれば、桁違いに少ないのではあるが。夏休みの事務研修も養護学校にはなかったが、夏休みは3日あったし、年末年始は12月29日から1月3日まで休みだった。貴重な休みには積極的に旅行に出た。

なお、この写真(ノート)の最後の方に、後に3.11で壊滅的な被害を受けた場所があるが、1997年の私にそんな未来が予知できるはずもない。被害を受けられた方々に心よりお見舞い申し上げます。もしこの写真の中に何かの役に立つカットがあれば、自由にコピーして使っていただいて構いません。

津和野。1996年2月。

津和野。1996年2月。この時、山口県に40年振りの大雪が降った。

南大嶺。1996年2月。

象潟。1996年6月。

象潟(鳥海山)。1996年6月。

象潟。1996年6月。

常総市(水海道市)。1996年7月頃。

平泉。1996年8月頃。

気仙沼市。1996年8月頃。

遠野市。1996年8月頃。

遠野市。1996年8月頃。


塩竃市。1996年8月頃。

塩竃市。1996年8月頃。

塩竃市。1996年8月頃。

松島湾。1996年8月頃。

松島湾。1996年8月頃。

松島湾。1996年8月頃。

松島湾。1996年8月頃。

南三陸町(志津川町)。1996年11月。

南三陸町(志津川町)。1996年11月。

気仙沼市。1996年11月。

仙台市。1996年11月。

笠間市。1996年12月頃。

気仙沼駅。1996年12月。

陸前高田市。1997年1月1日。

陸前高田市。1997年1月1日。

常総市(水海道市)。1997年2月頃。

常総市(水海道市)。1997年2月頃。

1997年3月31日をもって、私は神奈川県職員を辞職した。
そして、東京綜合写真専門学校第二学科(夜間)に通いはじめた。
ただ、綜合写専の授業が始まるのは4月7日頃だったと思う。それまでの間、4月3日に事務引き継ぎで保土ケ谷養護に行き、その夜の夜行バスに乗って九州を目指した。

熊本市。1997年4月。この一枚が、綜合写専入学前の一番好きなカット。

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