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少女写真について

飯田エリカの写真術、つまり少女写真をどう撮っているかを紐解き、どんどん分解して伝えていければと思うのですが
まず、少女写真についていろんなところで機会あれば都度書いているのですが改めて書ければと思います。

10代の頃、自分のなかの大事なものはこれからどんどん失っていくのではないかという恐れがありました。その時はそれが一体なんなのか、常にそれを奪われまいと奪おうとしてくるものたちがたくさん周りにいる感覚があり、ヒリヒリとしていました。

15歳、高校一年生のときとても大切な友人ができました。
自分のその友人への友愛がとびきり大事でした。
友人と大事なものとその大事なものを奪われまいとするヒリヒリさを共有していたと思います。そのときの"今"がとても大事でした。

写真を撮ったときに、写真に撮っておけば私の愛も、その時にしかない私たちの大事なものも残るのだということを知りました。

誰にも邪魔されない、誰にも奪われようがない確かさでした。

社会ではたくさんのしがらみがあります。なぜか男性と女性が結婚して子供を産んで家庭を作っていくことが幸せとされていたり、若さこそが女性の価値とされていたり、男性が女性を無意識で蔑視していても当たり前すぎて気づかれることすらなかったり、男性であれば強くなきゃいけない、泣いちゃいけない、とされていたり。悪い男がモテるとか、女はちょっと馬鹿なくらいがいいとか、なんだかそういう書ききれない、いろんなものがあります。私の家ではそういうしがらみでぐちゃぐちゃになってしまって悲しい連鎖が生まれていました。人のことをペラペラとしたレッテルを貼って馬鹿にしてくる人が中学の学校生活ではいました。

でもなぜか私は、自分も含めて人の命は、素晴らしさはそんなもので奪われるべきものではない。そのことをうんと前から知っていました。

少女というワードを聞くと"ロリータ"なものを連想されることが多いです。

でも自分は社会で揉まれることで失われたように見えてしまう、人の神聖なところ、純潔な命の美しさを"少女性"というのだと写真を撮り続けて気づきました。

人が少女に惹かれるのは、自分が失ってしまったように思うその神聖さの美しさにその光に心を洗われるからなのだと思います。
時には危ういほどに曝け出されている美しさに惹かれてしまう。
でも見えづらくなっているだけで誰からもその神聖さは奪われることはないのです。

社会で生きていくためには隠さなきゃいけない。本当はあるものを、隠しておかないといけない。
でも隠し続けると自分自身の純潔な魂、命があったことを忘れてしまう。

その"少女性"(神聖さ、純潔な魂)が隠していても私には見えるからそれを写真にしています。
だからひたすら、人を撮ることに駆られるのだと思います。

写真を撮ることで社会の禍々したものに疲れても、ちょっと元気になってくれる人がいます。ちょっと疲れた人たちがなんとなく縁があって私の写真に写って、大丈夫になって元気にまた社会に戻っていく。
そんな邂逅を何度もしました。

人の命の純潔さは誰にも奪われようがない。
眩い光です。
その光がフィルムに焼き付いて、写真になる。

それをひたすら、ひたすらずっとやっているのです。
私だから見えるものもあるし、それはきっと私の写真に惹かれて、その写し方を知りたいという人だからこそ見えるものもある。
私の撮り方がその人の見えるものが写真になる手助けになるかもしれないです。

少女写真の写し方と私の見えているものを少しずつ紐解き、一緒にその光を写していけたら、きっと大事なものがちゃんとここに残ります。

社会に人に傷ついたときにそんな写真たちがあなたを守ってくれますように

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