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向山新之右衛門の赤鎧

  井伊の嫡流でありながら、江戸時代を通じ諸所を転々とした挙句越後与板二万石に落ち着いたものの、時には彦根藩の先兵扱いを受けた与板井伊藩。その臣として幕末井伊直安治世、諸奉行に任じた向山新之右衛門着用の具足が発見されました。二万石の家における五十石は藩中の上士であり、その珍しい形式(腹巻式具足)と相俟って与板井伊家家臣幕末期使用の基準が窺い知れる貴重な発見となりました。


脛当ても真っ赤です。


 特に兜の飾りである「前立物」が彦根藩のような長い金の天衝(てんつき)ではなく、小型の銀の半月(三日月)であるところが資料上興味深いところです。これが与板藩中一般の方式であったか否かは残存史料が少いので今のところ決定的ではありません。

  具足そのものは煉韋造(ねりかわづくり)の腹巻という軽便実用的な仕立となっています。

祓い立て(前立を差し込むところ)にも綿密な草木の毛彫が。意外とありません。
かぶとの吹返や目庇は、金銅製の「覆輪」が掛けられた上等なものです。
錣の花がらみと、袖の萌の色が揃えられています。
半ぽうが深いです!これが大変珍しい形です!半ぽうの垂げの一番下段両端がやや反っており、実用を考慮したもののようです。たいていはまっすぐなものが多いです。
腹巻式ですので、鎧の胴の引き合わせが背中にきます。右上に丸い金具が残っています。この装置で留めたと思われます。
墨で消されていますが、かろうじて判読ができました。家の名誉のために出所が名前が抹消されている蓋裏。完全に消すには未練があったと思えます。文久三年は幕末動乱の時期を迎えんとした風雲が越後の国のような地方へも伝播し、諸士が危機下に置かれた時代です。そのような頃に実用を意識して作られた鎧。向山氏は役付の侍なので、経済的に余裕があったのでしょう。
全て赤尽くし。


写真は全て井伊達夫収集資料写真より。


井伊家って彦根藩だけじゃないの?とたまに(結構・・・)尋ねられます。

徳川四天王である井伊直政の嫡子・直継は十年あまり彦根にいましたが、最終的に家としては越後・与板藩へ、
そしてもう一人の息子・直孝が大坂の陣での大活躍などもあり最後まで京の玄関口・要衝たる琵琶湖彦根を警護する、彦根藩として維新まで続きました。そのため、井伊家は2つあるのです。

こちらは真田家の赤鎧です。

そしてこちらが、井伊直孝の赤鎧。

二人の父・直政の遺品や甲冑はここにも。

お読みいただきありがとうございました!

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