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「刀剣鑑定と、おかねのこと」

 今日はこちらの続きです。刀を鑑定することの難しさと・・・それについてまわる、お金の話。

表紙刀紹介:

奈良原喜八郎(維新後 繁と改名) 結婚記念の短刀(二代目奥元平作)

奈良原は幕末の外交上の大問題となった生麦事件、聞こえが悪いがこの事件の主犯(実際は大名行列上のルールを実行したまでだが)として英国人リチャードソンを殺害した人物である。この短刀は喜八郎が結婚に際して妻となったスガ(毛利氏)に贈った短刀で、名工元平(二代)の作である。刀身に「幾久(いくひさしく)」と彫られてある。喜八郎繁は剣槍の達人である薩摩人を代表する勇武の士であったが単の鬼のような男ではなく心優しい人物であったことが、刀身の彫りからも窺われる。  

表に「幾、裏に「久」と彫られています。素敵な結婚プレゼントですね。

——神田白竜子にしても鎌田魚妙にしても、従前から知られている刀剣鑑定の宗家である本阿弥家に対抗する意識を根本に強く抱いていたことは事実である。いわゆる「官」に対する「在野」の反抗心である。
 「官」たる本阿弥家は桃山時代の大目利きともいうべき光徳以来、天才光悦そして江戸の光温や光忠という才物を輩出し、十二家に分かれて刀剣鑑定世界の独占的グループを形成した。権威が生まれて星霜を経ると、権威というものを支えそれを裏打ちしていた中味の実質――見識と誠意がなくなってくる。これは刀剣鑑定の世界だけでなく、同族が代襲して継続した集団社会には必然的に生じる頽廃である。巨大化した集団は己の発散する腐臭には一切頓着することなく、ただ収奪をくり返してゆく。

 江戸中期以降の本阿弥家においては、ほとんど単に鑑定結果の折紙を発行することだけが仕事で、それだけをやっていれば良かったとされる。作者を極め、代附、つまり金銭的価値を決定して、刀剣所持者の要望を満たしていれば、事は足りた。上は将軍から大名、旗本、一般士人、金満町人に至るまで、唯々諾々、誰も文句は言わない。テキストらしい教導本もなく、ただ本阿弥代々の観【み】かた、目利きのルールなるものに則った集団鑑定によるものであるから、異議の述べようもない。大日本大公儀御用達本阿弥グループである。後々格上げはあっても否定することはない。

  本阿弥家が鑑定証を発行したものがいわゆる折紙である。「折紙付き」という正真疑いなしであることの証明の代名詞もここに由来し一般化したものだが、意外に本来の意味を知る人は少ない。

 折紙というのは紙の形態を指した言葉で、もともと横に長い料紙をさらに細長く二つ折りにしたものをいい、転じてこの用紙に書いた手紙のことをいうようになった。
 上記のような手紙──書付は平安時代にはなく、鎌倉から現れるが、当時はもちろん一般的な書状であった。それが室町になるとだんだん幕府の公文書的な方面にも用いられるようになった。用途が広くなり、献上品の目録は大概この折紙を用い、そしてやがてこの折紙が刀剣鑑定証明書となって桃山江戸に至るのである。

 江戸幕府への献上品は当初現物を上納していたが、徐々にその現物主義は形骸化し、名目上は品物でも実際はただ現金を献上するようになった。たとえば本阿弥家がある刀を則重とした折紙を金十枚と書いて発行すると、頼んだ方の大名はその折紙を百両プラス手数料を払って買ってくる。その大名から幕府に献上された折紙は再び本阿弥家に還流回収され、現金百両は幕府へ支払われる。これが一般的な折紙の性格で、いわば態のいい商品切手であったのだ。


 なかなかシビアなお話でした。相当な研鑽を積まねば刀の目利きにはなれませんが、世の中からの要求はそんなところにはなかった時代もあったのでしょう。

 スマートフォンからは読みづらいのですが、歴史と刀剣の関わりについて下記の論文集もぜひお読みいただけると幸いです。

学芸室一押しは、『国行銘太刀における朱銘「仁和寺別当」の考察』です。
京都仁和寺に伝わった、国行在銘の太刀についてのお話です。長さ78.2cm、生ぶ茎(つまり作られた時から、誰の手も入っておらず原型を留めたまま)、そして「仁和寺別当」の朱漆が・・・ロマンです。

仁和寺別当国行押型

論文はこちらからどうぞ。

それではまた。
本当に暑い1日でしたね。お疲れ様でした。

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