リテラシーがあるということ
先日韓国での大人気ドラマ「トッケビ」を今さらながら見た。ドラマの中で「トッケビが自分に境遇について書にしたためる」というシーンがあったのだが…
そもそもトッケビとは日本でいう妖怪・鬼のようなものでドラマの設定では900年前に不本意な死を遂げた出来事がきっかけとなり現代から離れられずにいる。トッケビが生きていた900年前といえば、韓国はまだ高麗時代で、ハングルではなく漢字が主に使われていた。
現代では韓国ではハングルを使うことが一般的で当然ながら韓国国民の大半は、その書を読むことができない。自分の国の出来事なのに、である。
しかし私は幸い大学時代に中世史を先行していたこと、そして何よりも漢字を現代でも使う国の人間であるがゆえに、粗方その書の意を理解することができた。
この経験直後大学時代のある西洋史の授業で先生が仰っていたことを思い出した。
「古代ローマを研究していますと私に当時の識字率はどれ程だったのでしょうという質問を私にしてこられる方がいらっしゃいます。しかしこの言葉自体はナンセンスです。私たちは、日本語を使ってコミュニケーションをとることができます。しかしそれをもってして、日本語のリテラシーがあるといってよろしいのでしょうか。例えばこの教室の中で江戸時代のくずし字を読むことができる人がどれだけいるでしょうか。歴史学専攻者しかいないこの教室の中でさえ、くずし字のリテラシーはかなり低いのです」
日本語とくずし字を一緒くたにして語ることは少々乱暴であるとは言え、「リテラシー」という言葉の意味をより深く考えさせられる機会であった。
昨今は様々な国の背景を持ち、またその言語を操る人も多くいる。ただ今一度翻って考えたい。
「リテラシーがあるということ」を
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