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小説│人形・岬の古城・海に沈んだ透明な小舟



 人形

 大時計の文字盤は、両手を広げたぐらいの幅があった。そのわりには軽く、少しの力で横にずらすことができた。十二の数字の真上あたりを支点に、振り子のようにスライドし、カチリと音を立てて止まった。
 文字盤の後ろには、ちょうど人が通れるほどの長方形の穴が開いていた。そこを通り抜けると、大きな歯車が並んでいた。時計を動かす機構にしては、歯車の数が多いように思えた。他の用途があるのだろうか。
 歯車の奥には、ガラス板で区切られた、窓のない部屋があった。ガラス板の両端は壁から離れており、隙間から部屋の入ることができた。
 部屋の中には、壁に凭れかかるようにして、人形が座っていた。人間のよりも一回り小さい木製の人形だ。
 人形の肩を軽く揺らすと、奇妙な感覚が起こった。
 ――わたしはかつて、この人形だったことがあるのではないか。
 同時に、人形の意識のようなものが流れこんできた。それは音と映像を伴った、記憶の断片だった。前後の脈絡はわからない。人形は薄明かりの海辺にいた。海水を何度も手ですくって、小さなガラスの舟を探さなければならない。
 人形が抱いただろう喪失感のようなものを、わたしは追体験しているようだった。
 波に飲まれてしまった小さなガラスの舟を探すなんて、ほとんど絶望的ではないか。とても見つかるとは思えない。
 わたしは泣きたかったが、人形なので涙を流すことができなかった。



 岬の古城

 荷物を持たずにカフェを出て、そのまま歩いて海に入った。
 白い波が砕けていた。波を跨いで立ち、小さなガラスの舟を探した。もしも私が人間だったなら、波を両手ですくい上げるこの目には、涙が浮かんでいただろう。
 もう波に飲まれてしまったかもしれない。想像すると胸が痛んだ。ガラス細工の小舟は私という存在の留め金のようなものだ。このまま見つからなければ、私という存在は結束を失い、解ほどけてしまうだろう。
 こうしている今も、岬の古城には私の影が佇んでいる。
 私の足は水を含んで重くなる。湿気を吸った躰の感覚が鈍い。このまま、冷たい海に溶けこんでしまいそうだ。波に揉まれるうち、私の躰はバラバラに分解されてしまうだろう。関節の金属が錆び、手足がもげるまで、数日とかからないに違いない。
 岬の古城では私の影が徘徊し始める。私という存在が解け始めている。岬の古城にいる私の影は、ガラスの舟のことなど意に介さない。
 私は両手で海水をかき回し続ける。だが、もう波に攫われていってしまった頃だろう。
 私という存在から解き放たれた影。私とは違い、この不便な人形の躰を持たず、欲望のまま飛び回る怪物。欲望のままに生きて、醜く死んでいくことだろう。そう考えると、私の生命が私のものでないことが、口惜しい。
 だが、分解を始め、混濁した意識の端で醜い獣を睨んでいることしか、私にはできないのだった。



 海に沈んだ透明な小舟

 夕暮れ時にホテルの部屋を出た。向かった先は昼間にも訪れた古城だ。
 古城は修繕してから年月が経っているのか、ところどころ床がめくれて草が生い茂っている。そんな風景も記憶のよすがになるかと思い、昼間スマホで写真に撮っていた。
 また古城に戻って来たのは、写真を撮っていた時に落としたらしい私物を探すためだ。
 それはアクリルでできた、透明の小さな舟だった。
 海岸を歩いている時に思い出して、なぜか居ても立っても居られなくなってしまった。
 自分にとってそんなにも大事なものだったのか。そう問われれば意外だとしか答えようがない。
 どういうわけか、小さな舟のフィギュアを落としたことで、私という人間から剥がれ落ちた欠片が、まだこの岬の古城に佇んでいるような気がしたのだ。
 海岸で落としたのでなくてよかった。波に攫われてしまえば、透明のフィギュアを見つけることなんて到底できないだろうから。
 ――海に沈んだ透明な小舟。
 そんな詩的な空想に耽りながら、古城の回廊を回る。
 程なくして私は剥がれ落ちた別の私と再会した。
 小さな子どもが小さなアクリルの舟を弄んでいた。ベンチに置いてみて、寝そべって眺めたりしている。
 やがて子供は舟を手放して去っていった。
 後に残された私と私の舟は、しばらくの間、回廊に佇んでいた。



 あとがき

『人形』
 どこかの建物で、大きな時計の文字盤を動かすと、奥に小部屋があります。
 そこには人間より少し小さい木製の人形があって、自分はかつてこの人形だったことがあるんじゃないかと思う、と。
 かつて人形だった語り手は、波に攫われたガラスの舟を絶望しながら探していました。

『岬の古城』
 人形が海岸でガラスの舟を探しているお話です。ガラスの舟を失ったことで、人形の存在は分裂していきます。
 岬の古城というところに「人形の影」なるものが発生します。人形の存在が解けていくにしたがって、影は徘徊を始めます。

『海に沈んだ透明な小舟』
 語り手はガラスの舟を岬の古城で落としました。海でなくしたのではなくてよかった、と考えています。
 自分から剥がれ落ちた欠片が古城に佇んでいる気がしたと言い、そして「海に沈んだ透明な小舟」というフレーズが頭に浮かびます。
 語り手は、剥がれ落ちた別の自分と再会したと言いますが……?


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