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【再掲/R18】 やり直し




はじめに


 このお話は『わだつみの沈黙』という長いお話に登場した主人公『路海』とその夫『吉岡健一』のその後の様子です。本編をご存知ない場合であっても、こちらも『ああまあ歳の差カップルの話なのね』くらいの前提でお読みいただけるかと思います。路海は不遇の生い立ちのため、大人になってからも強い精神疾患を患っておりますが、側にいつでも健一がおりますので、大丈夫です。
 長いので前後編です。
 再掲リクエストありがとうございました。
 目次から各タイトルへ飛べます。

 前回の再掲リクエストはこちら⬇️

※ 虐待に係る表現を含みます。
※ 推奨、容認の意図は一切ございません。子どもを打つなボケ。



前編



 細い鞭で打ってよ、と路海が言った。

 ともすれば冷たく嘲笑っているようにも見える目元の暗さで、そういう時、彼女の稀有な瞳の底では淡い緑色の炎がくらくら、闇の中で風に吹かれる焚き火と同じく静かに揺れる。
 ちりちりと千切れて散らばる炎の切れ端。
 人を惹きつける。
 いい意味でも、悪い意味でも。
 もともと、どこかがほんの少しだけ、『線』を越えたような女だから、たまにそういうことをする。
 路海は綺麗な女だ。
 すれ違う人々の中には『えっ』と驚いてわざわざ振り返る者もあれば、ヒソヒソと『モデルかな』とか『超美人だった』とか『ハーフじゃないの』とか囁き合う者もある。ふわふわ、風をはらむやさしい栗色の髪の毛の緩やかな毛先に、ほんの一瞬で虜になる者もある。絡め取られるようにして。

 綺麗。 

 時に冷酷にも見える綺麗な顔で、魂を試す瞳で、彼女は夫を煽ることがある。
 大抵、体調も精神の調子も極めて悪い。
 夫、すなわち吉岡健一は年若い妻のそのあたりを察しとる能力について抜群に優れているから、抱きしめてやって満足するのか、それとも本当に『細い鞭』で打ってやらなくては解決しないのかの判断も瞬時に出来る。
 今回は残念なことに、後者だった。

 若くして未亡人となる憂き目に遭ったが、心身ともに並々ならず頑健な母から真っ当に育てられた吉岡健一と彼の弟である吉岡七海に、悲惨な体罰の経験はない。体が大きく頑丈で男だから、頭を拳で引っ叩かれる程度のことはあったがそれもほんの一度か二度で、痛くも痒くもなかった。
 路海の言う『細い鞭』なんておぞましいものに脅されたことも、打たれたこともない。
 吉岡の母は子どもや女が飢えたり、虐げられることを憎み、こと国内の新興宗教の類を蛇蝎の如く忌み嫌っていた。愛を騙り、子の尻をベルトや『細い鞭』で打つ行為に激怒していた。
 阪神淡路大震災にて夫を失い、幼い子どもを二人抱えた彼女の前には、蟻の巣からぞろぞろと湧き出るが如く宗教勧誘の人間が訪れた。皆、同じ顔だった。同じ顔をして微笑み、同じ顔をして憐れみ、同じ顔をして『お子さんを連れて集会においでなさいよ』と誘ったのだという。
 母は断固として拒否した。
 子どもがどういう扱いをされているのか、彼女は知っていて、心の底から嫌悪していたから。

 路海の親は違った。
 他に比較しようもない愚かな男女から生まれた彼女は、幾度となく、時には血が出てもなお打たれた。幸いなことに痕は残っていないが、彼女の心には今もなお、そしてこの先一生残る。性器を虐待されたこと、初潮の日にも尻を打たれたこと。
 自死の誘惑がゆらゆらと陽炎に似てたゆたう・・・・仄暗い命の淵を乗り越えて、姓を変え、どんな幸福があったとしてもありとあらゆる全ての光の陰で密やかに蠢く。
 路海が生きている限り、かそけき息をし続ける不幸の感触。
 傷。
 熱を帯びて膿み、腐り続けて路海を内側から蝕んでいる。毒が血に滲んで巡る。体よりも先に心を殺す毒がくるくる、くるくる、淡々と巡る。

 路海は綺麗な女だ。

 怒っているときの顔が、苦しんでいるときの顔が、緑の瞳が、憎しみで激甚に燃える。
 それで、綺麗な顔が真っ黒になる。
 真っ黒になって、何をしていたって華やぐ若い女にしてはあまりにも寒々しい肌で、いつまでも孤独で、可哀想だった。

 綺麗な顔が、綺麗なまま、人間から離れていく様子を、妻のそんな姿を、彼自身の母によく似た吉岡健一は見たくなかった。
 だからいつも言うことを聞いてやるのだ。
 どんな願い事も。
 痛みを伴ったとしても。

 ホテルに行こうよと路海が言う。
 悲鳴をあげても通報されないでしょう、と冷たく言う。まつ毛の長い、凍えた横顔で言う。

 ぎらぎらと燃える真夏の日差しに焼けたアスファルトの熱が、夜になってもなお冷めやらない。川端の青々した茂みを渡る風も温い。
 熱帯夜、日々積み重なる酷暑に人々がうんざりして額にじっとりと汗をかく中、路海だけは凍えたまま。

 吉岡はドライブも兼ねて郊外まで車を出した。走っているうちに妻の気が変わって、やっぱり打たないで、なんて泣き出して、おうちに帰りたいとぐずってくれないかと期待したが、路海は頑なだった。
 じっと黙ったまま対向車のテールランプの赤が夜道に伸びる様子を眺め続けていて、かけられる言葉もなく、車は国道沿いに群れるホテル街に入っていく。

 一番清潔で、一番値段のするホテルの部屋を取った。路海はパネルに映し出される価格を見て、諸々と思い出すことがあり、ぽそりと『安いとこがいい』と呟いたが、吉岡は聞かなかった。
 ロミ子のお小遣いから出せなんて言ったことないでしょ、と諭す。路海はきつい顔で……見ようによっては今すぐに泣き出しかねないような顔で、黙っていた。黙ったまま浅く頷く。

 部屋は広く、清潔で涼しかった。
 大きなベッドに掛かる布団の模様も凝っており、ソファも立派だ。テレビも大きい。路海は偵察をするように少しちょろちょろして、ベッドの端にそっと座る。
 吉岡はずっと、路海の『やっぱりやめて』を待ち続けた。コンビニで買った飲み物とアイスを冷蔵庫に入れる間も、風呂に湯をためる間も、待てるだけ待った。
 黙り続ける妻の隣に座って見つめる。
 軽やかな色の長い髪に隠れて俯いた横顔はよく見えないが、ぷるんとした唇が『やっぱり、おうちに帰ってYouTube観たい』と言うことはなかった。

 吉岡が渡されたのは、竹ひご・・・を何本も束ねて捩り、黒いビニールテープで両端をきつく巻いた『細い鞭』だった。
 他に分かりやすく喩えるならケインだろう。吉岡には性的に加虐側の倒錯嗜好があるから、かつえ相手にするM女、あるいは submissive のことを鞭で打った経験も多い。気合の入った連中も、これには苦しむ。

 こんなもので子どもを。
 なぜ?
 愚か者どもよ。

「ロミ子、これは自分で作ったんだね。こんなもん、嫌だったろ。どうして作ったの?」

 渡された30センチ程度のそれ・・

「……たまに、作って折ってる。よくもこんなので……むかついて、殺したくなって、でももう殺したから。折りたくて……折りたくて作ってる。」

「事故だろう、ロミ子。俺はおまえから、事故だったって聞いたよ。そうだね?」

 ややあってから極めて浅く頷いて、髪が揺れる。
 路海は時々、本当にこの鞭を折るためだけに数百円を払って材料を買っている。夫が仕事で出ている間、一人で作って、一人で折って、袋に放り込んで捨てている。
 愚かな親の骨を折るつもりで折っている。
 何度も殺すつもりで折っている。
 心の中にある薄暗い墓から掘り起こして、海水を吸えるだけ吸ってぶくぶくになった溺死体から骨をずるりと引き抜いて折っている。
 何度も。
 忌々しい思い出を引っ張り出して、実際の擬似感覚を伴って、何度も殺している、何度も、何度でも。

 親を。
 または、救われない日々に埋没していた子どもの頃の自分を。

「これで打ってよ。」

「……」

「出来ないの? バーカ。見掛け倒し。クソヤクザ。私の親は血が出てもやったよ。私が生理でもやったのに、出来ないの?」

 路海が綺麗な顔で笑っている。
 だって、と吉岡は、彼の諸々の気持ちを上手に片付けてから返した。

「俺はおまえの親じゃないもの。一緒にされちゃ困るよ、そんなバカと。」

 路海はヘラヘラしながら両足をベッドの上に乗せた。長い脚が映える黒いジーンズの裾から覗く細い足首が真っ白だった。
 つるりとした小さな踵。

「じゃあ、他の人に頼むからいい。」

「他? ロミ子、どういう意味で言ってるの?」

「そのままの意味。探せば、他にいるでしょ、私のおしりくらい、叩いてくれる人なんか。パパ活でSM好きな人に頼むから、いい。」

 そっぽを向いて転がっている路海の尻を、吉岡は前置きなしに『細い鞭』をヒュンとしならせて鋭く打った。細い背中が跳ねる。素肌で受ければそれこそ切り裂かれるほどに感じる一打だ。ジーンズ越しでもぎくり・・・とするくらいに痛い。

「ロミ子、来い。」

「……よしおか」

「堂園さんに戻るか? 笠井でも湯澤でもいいけどよ。おまえ、いっぱい選べていいね。」

「いやだ。吉岡がいい」

「他の人に頼むんだろ? そしたら『吉岡』は返してもらってからの方が揉めなくて済むよ。」

「いやだ」

 また、鞭がヒュンと風を切る。
 近いところに鋭い痛みが与えられる。
 路海の胸の内でくるくる、怒りも、悲しみも遣る瀬なさも寂しさも申し訳なさも、人間がまだ名前を付け切っていない気持ちも全部、毒と混ざって巡る。

 うえーん、と声をあげて泣く路海のことを、吉岡はすぐには許さなかった。容易く捕まえてベッドの縁に上半身だけ乗せ、『逃げたらどうなるかわかってるだろうな』との意味で腰のあたりをグッと押しつけて牽制する。

 鞭は何度もしなって・・・・、夏物とはいえそれなりに厚い生地に包まれた尻を打ち据えた。路海はひたすら泣き続けたが逃げはしない。

「堂園さん、自分でズボン下ろして」

 旧姓で呼ばれて、路海はいっそう激しく泣き喚いた。それでも吉岡が黙ったきりで許してくれそうもないと分かるとグズグズしながらホックを外し、膝の辺りまで下ろす。ショーツはネイビーで、尻には薄桃色の横線が浮かんでいる。まだ腫れてはいない。

「あ? なんだよ、ロミ子、『堂園さん』に戻っちゃったの?」

 夫の意地悪だと気づいて、路海は胸がグーッと苦しくなった。
 違うよ、いやだ、と弁明しても、吉岡は大きな口の端に薄く笑みを浮かべて軽く首を傾げるばかりで何も答えてくれない。
 また、ヒュン、と鳴る。

「あーーーーっ!! ……っく、あう……」

 悲鳴が喉から迸って、焼けつく痛みが路海を容易に子どもに戻した。吐き戻すほど押しつけられた痛みだった。

「……! いやだーっ! いやだあ、あっあっあっ……あー!! うわあー! あーっ!」

 どうして。

「やめて……いたい、やめてよう……やめて……」

 どうして、私を、誰も助けに来てくれなかったんだろう?


後編


「やめた」

 突如バキッ、と乾いたものが折れる音がして、路海はべしょべしょの泣き顔のまま音の出元を振り返った。夫がごつごつの手で、発泡スチロールでも割るくらいの簡単さで、細い鞭をバラバラにしている。
 しょーもな、こんなモン、わし、よーせんわ。
 ぶつくさ言いながらあっという間に折りきって、コンビニの空き袋にまとめて縛って捨ててしまう。路海には吉岡がごく稀に溢す方言が分からない。分からないが、細い鞭はもう来ない。視線に気づいた彼が片方の眉を吊り上げる。

「あ、悪い。ロミ子が折りたかった? ごめんな、やっちゃった」

「ン……」

 ゴミ箱の上で手を軽くはたき、さて、と吉岡は区切った。路海はへとへとで、ベッドから上半身も下ろし、床にへたり込んで様子を見ている。

「ロミ子はさ」

 言いながら近づいてきて、ひょいと抱き起こす。路海は膝にズボンを引っ掛けた中途半端な格好のまま、再びベッドの上に座った。吉岡の太い腕が腰のあたりを抱いてくれるから良かった。くっついていると安心する。柔軟剤の匂いと彼の匂いが高い体温と一緒になって、路海を『今の路海』にする。

「どうして欲しかった? 子どもの頃。すごく嫌だったろ。痛かったな……かわいそうによ」

 言われるとまた悲しくなってきて、打たれたところもずきずきするし、胸の中は未だモヤモヤして苦しいし、吐き出すようにして泣いた。
 吉岡は『おおよしよし』なんて本気で言いながら、引っかかっているズボンをすっかり脱がせてしまう。ジーンズ生地に篭る暑さと重さから自由になった路海は、夫のあぐらの上に座り、ぎゅっと抱きついて叫んだ。

「助けにきてほしかったっ!」

 吉岡の輪郭の太い顎が、路海の頭の上で『うん』と動くのが分かる。
 ぎゅうーっ、と何倍も強く抱きしめられて、路海は、このまま氷が溶け合って水になるように一個の生き物みたいになれたらいいのにな、と思った。

 それか、大事にしてもらえなかった体からすっかり抜け出して、おばけみたいになって、吉岡の心の中に、ずっと住みつくことが出来たらいいのにな。
 そしたら、死んじゃったって一緒なのになあ。

「ごめんなさい」

「おう、素直だな。じゃあもう勘弁してやろう。……冷やすか? タオル濡らしたの乗せるか。ちょっと腫れちゃってるな、ちょっと……これ、降りなさい」

「んん」

「冷やさんの? ん……?」

 胸板に埋まったまま離れない妻の背中を撫でたり、耳元に話しかけたり、あるいはシャツのボタンを一番上だけ丁寧に外してやって華奢な鎖骨の上を指でなぞってあやしたり、吉岡健一は人生のかなり早い頃から、誰にもどうしようもない理由で生じた母子家庭の長男であったこともあり、随分気長な人物だった。

 路海がぐずぐずとむずかる。
 もぞもぞ、そわそわ体を動かして、ショーツ一枚だけが覆い隠す柔らかな股間を夫の同じ場所にトンとぶつけた。わざとやっているが、恥ずかしがりの彼女は意図を優しく尋ねられても答えられない。

 おまえ、暑くって機嫌悪いんだろ。囁いて、無骨な手が薄手のシャツを、果物の皮をスルッと剥くように脱がせた。路海は水色のキャミソールを着ていて、ちょうど胸のふくらみの上にレースの繊細な飾りがチラリと見えた。ショーツとお揃いのネイビー、刺繍がふんだんに施された綺麗なブラジャー。妻の大切な乳房が、本当に高級果実くらい大切にされているから良かった。
 脱がせたその布の裏地が、柔らかいパットが、汗でわずかにしっとりしている。

 路海は全く抵抗しなかった。
 唇を少し強めに閉ざして、夫の手の感触に集中している。ひんやり冷たい体の上を熱が通っていく。
 髪の生え際に少し汗をかいていた。
 よく働く立派な男の手が、ずっと手加減して、ほんの少しも力を込めないで、路海の額にかかる前髪を後ろにどける。顕になったおでこに冷房の風が涼しい。

 安心して微笑むと、夫もささやかに笑った。
 強面に隠された心の優しさが瞳に滲み出ている。
 路海は吉岡の、亡くなった父親の写真を見せてもらったことがある。『俺は全然似ていない』とする通り、確かに全く似ていない柔和な優男が、信じられないほど小さな男の子、つまり息子である吉岡健一を抱っこして笑っている写真。
 なんだ、笑った顔はそっくりだ。
 優しい瞳が、瓜二つじゃないか。

「ロミ子、ちょっとおしり上げて」

「うん」

 膝の上から降ろされて、ふかふかのベッドに寝そべる。ホテルの布団だ。自分たちの匂いのない、よその布団。
 少しお尻を浮かせる。吉岡の手がショーツをつるんと脱がせてしまう。
 おりものシートに吸収しきれないくらい濡れていて恥ずかしかった。ぬるぬるした感覚が膣周りにある。熱を吐き出している器官に、夫の掌が触れた。すでに糸を引くほど粘性を増し、挿入に備える体液がぷちゅっと溢れ出すのが分かる。

「ロミ子はかわいいね。よく濡れて。」

「……悪いことだって言われた。はしたないって、淫乱だって」

「ロミ子が掛かってるお医者さんも、そういう風に言ったか?」

「言ってない」

「じゃあ、それは間違った意見だよ。なんにも悪くない。淫乱だの何だの……バカかって。いつの時代の何の話だ、アホくせえ」

 分厚く発達した掌底が恥丘を何度か軽く押した。前戯というより、路海の体の強張りをほぐすためのマッサージの意味が強い。押しながら、時々中指を柔らかい肉に軽く沈める。陰毛をすっかり除いているから、興奮してふくふくと性器周りが豊かになる様子がよく分かった。冷えていた体が少しずつ温まっていく。
 ある程度ほぐしたあと、吉岡は路海のすぐ隣に寝そべって抱き寄せた。ほっそりした背中を撫でる。
 汗をかいていた。
 そのまま腰のでっぱりを慈しんだ後、細い鞭で痛めつけた尻を触る。素肌を直接打ったわけではないから、血が出ているということこそなかったが、内出血を起こしてぷくっと腫れている。

「いたい」

「痛い? ごめんな、もうしないよ。」

「撫でて……」

「いいよ」

 腫れている箇所を元の場所になじませるつもりで優しく、繰り返し撫でていく。二人とも黙っていた。吉岡は路海が泣き出さないか気にして黙っていて、路海は体がとても大きな彼と布団の陰に収まって、安心して黙っていた。
 お尻のスリットを滑って、指先が粘膜に触れる。ぬるぬるといくらでも濡れて、路海は一番気持ちの良い一粒を触って欲しかったから、体の向きを仰向けに変えた。膝を軽く立てて、吉岡が触りやすいようにそっと足を開く。心細いし恥ずかしいから、顔は彼の胸板に向けて隠しておいた。

 吉岡の指は太い。節くれ立っていて、骨がひとつひとつごつい。それだからもちろん指自体も太くなって、力強いというよりは頑健だとか強靭だとか、無骨だとか、そういう印象になる。
 女の細い指とは密度も重さも圧倒的に違う男の指が、路海の膣に入った。体液は溢れて肛門の方まで伝う。
 中指が入って、くちゅくちゅとかき回して拡げて、人差し指が続けて入る。緊張していると二本目の挿入が苦しい時もあるが、今日は大丈夫だった。

 緊張している日は彼にも伝わる。
 無理に押し広げられたことはない。この人は大丈夫だと頭ではわかっていても、体がうまく機能しない日もあって、路海は自分自身の体をいまだに自分のものだと信じることができず、辛くなることも多かった。
 でも、随分、ましになった方だ。

「あっ、あっ」

「ロミ子、かわいい。触りやすいようにしてくれてるの?」

「うん……!」

 中指と薬指が挿入されて、路海の体の中を、膣の上側をぐりぐり、ひっかけるように押してくる。これをされると弱く、おもらしをしそうな感覚があって、過去には実際に漏らしてしまったこともあった。恥ずかしさからワアワア泣く路海に対して、吉岡は一切怒ったりしなかった。大丈夫、大丈夫、ごめんごめん、悪かったよ、と励ましながらぎゅっと抱いてキスをしてくれた。今日は大丈夫だろうか。

 一番触って欲しかった器官に親指が触れた。
 ざらざらする指だ。
 腰が浮く。お尻が緊張する。打たれた痛みが刺激になって、路海は混乱して、よくわからないまま『うう』と小さな声で呻いた。自慰とは違って愛撫だから、路海が一番好きなタイミングでイくことはない。ただ緩慢にずっと気持ちいい。

「ロミ子、自分でも触ってみなさいよ。俺に教えて。ロミ子はどこが一番好き?」

 性器から手が離れて、路海は言われるがまま自分で触った。
 膝を立てている。吉岡がそうしてくれたように自分でも指を入れてみたが全く物足りなくて切ない。クリトリスを人差し指の腹で擦った。自分で触って驚くくらいに濡れて、ぬめって、膨らんだ一粒を刺激するのには余るほど十分だ。

 一生懸命くりくり擦って、立てた膝を伸ばした。
 爪先までぴんと伸びて、体全体が腰を中心にふわっと浮かぶような気持ち良さが起こり、膣の中がきゅーっとしまって、乳首の先まで気持ち良さの余波が行き渡って、やんわりと落ち着く。
 路海はいつも、自慰の絶頂の終わりのことを『ぽてっとお布団に落ちる感じ』だと解釈していた。今日も同じで安心した。路海はもう、自分の一番『気持ちいい』を知っている。

「よ しお か」

「ん?」

 夫の声が優しい。
 彼はイッたばかりの妻に狼藉は働かない。ただ大切に抱き寄せて、路海のタイミングを待っている。彼だって妻の気持ちよさそうな様子を見て勃起をし、早く抱きたいと思っているが、余韻に浸っている女を雑に扱うことは主義に反した。

「よしおかも、脱いで……」

 可愛い願い事だった。
 吉岡には父のそれを真似た立派な関西彫りがあり、腕五分まで模様があるから、夏場の衣服には気を遣う。勤め先ではもちろん長袖を着用し、うっかり袖をまくってしまっても事故に至らないよう、手首まであるぴったりした冷却インナーで隠していた。普段着でもそうだ。これは吉岡の大切なお守りであって、見せびらかすものではない。大抵、半袖シャツに、職場と同じくインナーで対応している。ヒートテック・インナーが登場した時もだいぶ助かったが、冷却インナーは比較にならないほどありがたかった。

「大きくなってる」

「そりゃそうよ、ロミ子、かわいいからね」

 細い指先が太い幹に触れる。冷たい指だ。
 路海は本人の意思とは関係なく、ずっとピアノを弾いていたから指がとても綺麗で、長く、繊細で細い。怪我をしたら大会に出られないから、体育でも球技の類には一切出席しなかったのだという。

 大会に出られない、優勝できない、コンクールに出られない、賞をもらえない。
 全ての『〜ない』の後に、残酷な体罰があった。
 食事も容易く抜かれた。
 路海はお腹がペコペコのまま、必死になってピアノを弾いていた。
 天賦の才があったことは確かだ。
 魔女とすら揶揄された路海の腕前。
 冷たい指で弾く真っ黒な音符の群れ。

「指が……、細いねえ、おまえは。俺、心配になっちゃうよ。え? ロミ子、おまえ、あれだね。『おてて』だね。お姫様の手みたい。綺麗だね」

「おひめさま?」

 くすくす笑う。
 路海はちょっと嬉しくなって、自分の手を眺めた。薬指の根本に銀の輪が光る指は、確かに細いが、お姫様だなんて。

「お姫様も、結婚したら、王子様とこうやったのかな。えっちしたよね、きっと」

「お世継ぎが要るもの。がんばったと思うよ」

 王子様と呼ぶにはいささか迫力がありすぎるが、路海の王子様はこの強面なので、仕方がない。海に沈んで死のうとしたところを、白馬ではなく黒い大きな車に乗って助けに来た。

「おいで。もっとくっつくか?」

「口で……」

「うん?」

「口でしてみたいの。いい?」

「こういう時によ、ダメって言う男っているんかな」

 吉岡は先に妻に深く口付けておいた。舌を吸い出すつもりで、普段はしない強いキスをすると繊細な体質の路海が緊張し、極めて軽微に絶頂したのが分かった。

 路海はふわふわした気持ちで夫の性器に顔を近づける。
 咥えやすいように仰向けになってくれているから、天井に向かって立ち上がっているペニスの仔細がよく分かった。

 生活の糧として、路海は体を売っていた。

 路海にとってセックスが商売だったことがある。産みの親すら踏み躙り尽くした体を大切にできるわけもなく、空腹を凌ぐための最も手っ取り早い手段として、体を売った。一回のインスタントなセックスで、好きなものを好きなだけ食べさせてもらえた。

 空腹の恐怖が、むなしさが、コンドームのたった一枚で避けられるならそれでよかった。

 お気軽に、セックス・ワーカーを批判する人間がいる。
 自分もかつて性産業に従事していて、だからこその批判なら分かるが、大抵の場合そうではないからおかしかった。

「無理しないでいい。おいで、ロミ子。」

「する」

 今まで見てきたどれとも違う。そしてこれが最後の一本になる。別にこれを咥えなくたって、射精させなくったって、膣に埋めなくたって、吉岡健一は路海を飢えさせることなんか絶対にしない。
 何をどうしたって食べ物を手に入れて、妻を飢えさせたりなんか、しない。
 だからこそ自分から咥えたいと思ったのだ。
 路海自身のために、こうしたかった。

 口が小さいから、普通よりも大きい亀頭を含むだけで精一杯になる。鼻で息をして、舌先でそれっぽく舐めてみる。今までにも何度か試してみたことがあって、吉岡は尿道の上をなぞられると気持ちよさそうだと気づいていた。
 ぐっと太くなるからすぐに分かる。
 一生懸命、がんばってみて、いよいよ口の中が苦しくなって顎も疲れて、泣きそうになる頃、おしりを優しく叩かれた。もういいよ、離して、のサインだった。

「ロミ子、いいよ。無理すんな。ありがとうな。すごい気持ちよかった。あぶね〜」

「どうして、なんで、吉岡は、私の口に、ださないの?」

 体を起こした夫が今度は路海をベッドに寝かせる。彼はにこっとして、

「ロミ子のことが大事だから」

 とシンプルに答えた。 
 路海の体を奪ったり、買い取った誰もが言わないことだった。 

 自分の髪の毛がほんの一本でも肩に触れる感覚が分かるくらいに鋭敏になった路海の柔らかい腹に、吉岡は何度もキスをした。鼠蹊部や、恥丘の中心、太ももの内側や、路海が一番恥ずかしがるところにも繰り返した。
 太い骨、分厚い筋肉、路海よりも、何十センチも背が高くて、何十キロと体重がある大きな生き物。
 大きな生き物に慈しまれている。

(……ああ、私は、この人に、赤ちゃんみたいに扱われたいのか)

 親。
 幻の親。
 何をどう間違えたって路海のことを虐げない、夢の世界の親。
 大切に大切に育ててくれる。ごはんもおなかいっぱい食べさせてくれて、学校も自由に行かせてくれて、体を気遣ってくれて、コンクールで堂々と優勝なんかしたら、きっとケーキを買ってお祝いをしてくれるような。

(私、やり直したいのか)

 ここまで生きて、やり直すことは、もうできない。

 できないけれど。

「ロミ子、大丈夫か。痛いか? うん……? 泣くことない、泣くことないよ……」

 忌々しい『細い鞭』を容易く折り割って捨ててくれたこの人と一緒に、私。

「抜かないで……このままして、お願い」

「痛くないか? ロミ子、おまえ、ダメだよ。我慢してるんじゃないだろうね」

「大丈夫。健一さん、おねがい。気持ちいいの」

 気遣う優しい沈黙が少し続いて、ゆっくり腰が動かされた。
 奥の方をトントンと突く。
 少しずつ速く、重くなっていく抽送を、体の中で出される熱を、路海はきちんと全部受け入れたかった。

(『ロミ子のことが大事だから』……)

 私のことを、大事だと言うこの人と一緒に、私は。

「ロミ子、俺な、大事なんだよ。おまえのことが。元気じゃなくても別にいいからさ。な。ずっと、俺と一緒にいてよ。長生きしようぜ、一緒によ」

 路海は、うん、と頷いた。
 やり直すことはできなくても、この人と一緒に生きていけるのなら、朝も夜も、神様が決めた命の限界まで積み重ねていけるのなら、それでいいと思った。





(おしまい)

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