アナロジー

アナロジーという言葉をご存知ですか。これは人が何かを認知する際に非常に便利な認知過程なんですが、そのアナロジーの落とし穴について触れてみたいと思います。専門家では無いのでそもそも議論が破綻している可能性もありますが一意見として。

アナロジー(Analogy)は「類推」「類比」とも呼ばれ、特定の物事に関する情報を理解しやすくするために他の物事になぞらえることを指します。例えば、赤色で丸い形をしていて片手に載るくらいの大きさの金属性の物体『X』について誰かに説明するとしましょう。『X』は金属製ですが、「赤くて、丸くて、片手にのるくらいの大きさ」という要素は「リンゴ」と共通しています。そこで、「『X』は金属製だけど、見た目はリンゴに似ている」と説明します。多くの人が知っているリンゴに例えることで、実際に『X』を見たことがない人でも「金属でできたリンゴのような物体」を直感的にイメージしやすくなるでしょう。このようにわたしたちが普段から良く使う比喩表現も、アナロジーの一種といえます。

このアナロジーは自分が未経験の事物を理解する際や、他人に説明する際に非常に有効なものなんですが、僕はこのアナロジーに落とし穴があると考えています。

もちろん、このアナロジー的思考をできる人は優秀な人が多いです。未経験の分野に対しても既知の情報や経験に類比してある程度の成功をおさめられ得るからです。しかし、僕が常日頃から思っていたこのアナロジーの落とし穴は、類比される二者間に同法則がいつなん時も当てはまるという担保がなされていないことがある、むしろ、そういったケースが大半だ、ということです。

例えば、僕の中学時代の担任が、生徒に勉強を毎日続けることが大切だ、という理解をさせるために、「勉強は花を育てることと同じだ。毎日欠かさず水をやらないと枯れてしまう」といった話をしたことがあります。しかし、ここで、勉強と花を育てることとに同法則が当てはまるという根拠はどこにもありません。あくまでも自分の都合のいい理解に進むように類比する二者に同法則が当てはまると仮定してしまっている場合があるのです。

基本的に、ある特定の二者間に同法則が当てはまるということを手放しに担保できるケースは極めて少ないと思います。ただ、僕はこのアナロジーが悪だと言いたいわけではありません。何かを理解する際や説明する際に非常に便利な手段なので。つまり、アナロジー的思考の正当性は必ずしも保証されていないことを念頭に入れつつ、なるべくご都合主義に傾倒しない立場を取ることが大事だということです。

これは経験論にも同じことが言えます。例えば、東大医学部の河野玄斗はセンター試験前に車の免許を取りに行っていたという話がありますが、それでは、河野玄斗があなたに、「自分はセンター試験前に車の免許を取りに行っても東大に受かったからあなたも同じことをしても大丈夫です」と言われて、なるほどそうですね、とはならないでしょう。

結局、経験論にもアナロジー的思考にも言えることとしては、データが多ければ多少の正当性が有り得るということだと思います。そのため、経験論もアナロジー的思考も、考えの1つの支えとして、最後は自分の意志と照らし合わせる中庸が最もガタのこない考え方でしょう。

世の中、大抵中庸に落ち着いてしまいますね。結論は孔子が大昔に既に導き出していたということでしょうか。

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