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北大路魯山人 大家による芸術の定義

北大路魯山人による芸術の定義は心術、感情熱情、入神的、自然美からの学びなど曖昧ではっきりとしない。直截にいえば広範すぎて厳密な定義には失敗しているし、ま新しいものはない。ゆえに明確に誤りようもない。

芸術というのは心術だといった方が解り易いのではないかと思うのであります。これは心の置きよう、感情熱情で出来たところのもの、それが芸術であると解してはいかがと思うのであります。元来、この「術」のつくのが問題なのでありまして、美術とか技術とかいずれも「術」がつくのでありますが、このいずれの術も精神的、入神的のものに限りまして、常識上通常の算盤に、はじききれない作用が出来るものを「術」といい、「妙」というのだと思います。常識では測れない、二一天作では割りきれない心的作用によって、千態万様に表われ来る所のものが「術」だと思うのであります。
「的」というのは弓矢に関する的だと思いますが、芸術を的に譬えて申しますと、これが金的にまで進み、行くところまで行ったのが最高の芸術なのであります。

引用 北大路魯山人 芸術的な書と非芸術的な書


それにしても、百尺竿頭一歩を進めて、是が非でもゆめ怠ってはならぬことは、大自然に天然美を学ぶことである。天に偽りなきが今更の如く感ぜられ、深く心にそれが刻みつけられ、美神の顕現を心眼に見るであろう。かくてこそ美に生きんとする者の生甲斐はあると言えよう。

引用 北大路魯山人 芸美革新


すべての物は天が造る。天日の下新しきものなしとはその意に外ならぬ。人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ。しかも、それがなかなか容易な業ではない。多くの人は自然を取り入れたつもりで、これを破壊し、天成の美を活かしたつもりで、これを殺している。たまたま不世出の天才と言われる人が、わずかに自然界を直視し、天成の美を掴み得るに過ぎないのだ。
 だから、われわれはまずなによりも自然を見る眼を養わなければならぬ。これなくしては、よい芸術は出来ぬ。これなくしては、よい書画も出来ぬ。絵画然り、その他、一切の美、然らざるなしと言える。
美の源泉は自然であり、美味の源泉もまた自然にある。
すべてよいものは、よい自然から生まれるということが言える。言い換えれば、自然がよければ、そこに生まれるすべてのものがよいと悟ってよい。

引用 北大路魯山人 味覚の美と芸術の美


魯山人の壮麗な多弁は秘教的な断定である。金的を射るとか、心眼を養うだとか、天然美を学ぶとか、具体例をあげ何々が美しいものであると語る。しかし美とは何か、芸術とは何かを自明のものとして扱っているからこのような解説はできるが、定義とはなりえない。美の周辺ではなく金的を射ること、それが最高の芸術だというのではトートロジーになってしまう。

思うに彼のいう美とは美食の美なのではないか。
うまいものを食べたときにどんなに味を克明に表現しようとしても、食べていない者には想像するしかない。うまいものにうまい理由はあり、説明もできようが、「魯山人の感じている美味」は彼固有の舌なしに存在のしようがない。能書や画をみたときの素晴らしさ、内的体験を言葉にしたところでそれはもう魯山人の感じた美そのものではない。美を賞味しつくし微妙を感じわけることにかけて並ぶ者のいないと自負していた魯山人自身が、その伝わらなさを理解していたのであろう。知識、表現力、実際にできた作品を自己の美意識に照応してそれが「美しい」かどうか。古代と自然にしか学ぶもの、並ぶもののいない魯山人。彼は孤高であった。
私にはわかる。ただ美しい。そうとしか言いようがなかったのではないか。なれば魯山人の言う美は彼と共に死ぬだろう。Clonorchis sinensisという現実が北大路魯山人という美の観測機、その稀なる舌に死をもたらした。

確かに、その魯山人の内的体験としての美と、他人の感じている美は違うものだろう。完璧に共通している内的体験など恐らくないであろうにしろ、ただ自分だけがこの美を理解して体験しているというには、魯山人が他人より優れて鋭敏に美を理解しているという内的体験の比較観測が必要なはずである。しかしそれは不可能だ。魯山人の内的体験と余人とを比べられる第三者的な視点・価値の尺度というのは美神の顕現などを仮想するほかない。
よって魯山人は美すなわち自らの内的体験を絶対化し、美的体験が他者からも与えられてきた事実を吟味し、感情や心という共通項をもって芸術の定義となした。自然美や歴史的作品に対する感性というものを他者と共有しているとすれば、全く根拠がないわけではないが、その先の考察が魯山人にはない。何々が美しいという断定で終わる。

だからこそ心術や熱情や感動というありきたりの講釈を「定義」のように並べるしかなかったのではないか。感情や心などと素人でも言えることだが、あの北大路魯山人であるから周囲は拝聴するのだろう。こと作品や製作への取り組みにおいて芸術至上主義かつ日本主義の魯山人は大家かもしれないが、その核となるべき芸術論に新しいものは何もない。
美の源泉は自然にあり、美は感動であり、その深奥は研鑽と天分によりただわかる者にのみわかるという心情主義である。

大阪の町人学者、思想家の富永仲基(1715-1746)は国に俗ありとして、日本思想のくせを「奥義を隠すこと、神秘」であるとしている。
内的体験を美としたときの、他人への伝達不可能性を隠すのにこのくせは二重に機能していた。

一方で、魯山人と他者の内的体験において共通するものが全くないというわけではない。仮想にしろ、信仰にしろ、想定する必要がある。そうでなければ美など語れまい。
(もっとも美神の顕現などという表現は美の断定を一個人の主観に帰属させないため論理上の要請に従ってつくられた万古の偶像であるが。)

共通するものとは何か。時代を経て残されてきた歴史的作品、自然への感動という核心である。魯山人のような感性が、核心に対し新たな価値を加える、あるいは再評価をすることで核心に革新がもたらされる。そうして文化には部分的にも全体的にも変化と保存の相克が絶えず起きてゆく。魯山人の孤高と呼ばれるゆえんはこの核心への造詣の深さと、革新への妥協なき挑戦にある。「芸美革新」における情熱と自負の横溢は、まるでまばゆい光を放っているかのようだ。それは修身の道にも似てこの先も残り続けるし、一見して誤りようのないものである。ただ、この先もその道を続けていくことが本当に核心なのか、革新たりえるのか。
魯山人のような「大家」、偶像の彫刻家、美を断定する装置が、周囲から、市場から要請されて存在していると考えたことはないのか。

現代において心情主義は私益を追求する権威主義、スノビズム、ナルシシズムに結びついているか、平板化された万能の説明理論である生活の幸福に奉仕するか、定見などありようもない主義なきニヒルによってただ無視されている。心情の行き着く先は必ずこれらに終わるであろう。

もうこの世には、魯山人のいう美は失われている。核心と革新の意義が私益か、生活か、惰性的従属に帰結するからだ。正しくは価値として失効しているというべきか。もしその先の可能性を追求しなければならないとしたら、立論はここにある荒野から始めるしかない。


北大路魯山人・参考文献
芸美革新
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/55073_66537.html
芸術的な書と非芸術的な書
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/55046_70447.html
味覚の美と芸術の美
https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/54983_50783.html


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