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花屋の店先に並んだエリート達とホテルはリバーサイド川沿いリバーサイド

「花屋の店先に並んだ色んな花は、生存競争に勝ち抜いてて且つ店の顔になるような美しい花なんだぞ、まず努力しろバーカ」

そんな人それぞれ警察をしていた板橋区の16歳
王道や確率を好み、オンリーワンなんて最終手段であり草食系の吐く逃げだと思っていた。

それを使っちゃあ議論が始まらんだろう、と。

これは
スポーツで一番を目指し目的と生産性で生きていた大島少年が、芸術性と多様性あふれる井上陽水の音楽を聞いてぶっとんだお話

花屋の店先に並んだエリートたち

ー鼻歌を歌いながらひたすらドリブルをする、1人で。とにかく音楽とバスケットが好きな学生時代だったー

花屋の店先に並んだ色んな花とは果たしてどんな花だろうか。

スタメンだ。
無数にある花の中での生存競争に勝ってしゃんと胸を張れるほどの逞しさと、第一印象店の顔とも呼べる店頭に並ぶほどの綺麗さを兼ね備えているエリートの花ということだ。

つまりオンリーワンというのは「その分野のナンバーワン、もしくは上位者」じゃないか、と幼少の頃からスポーツの世界に生きていた大島少年は某歌詞部分をそう理解(曲解)し、世界の残酷な真実に気づいたつもりでいた。

人に個性を見てもらうには、まずある一定の水準に達しないと気づいてすらもらえない。まずレギュラー争いに勝たなければいけないのだ、と。

毎日シュートを打って、ドリブルで移動して、夜は公園を走って。

ゆとり世代。クラスで「人それぞれだよね~」とのれんに腕を押すひらひら感がオトナっぽくて素敵という風潮が蔓延し始めた時期があった。情報過多時代のさとりだろうか。

ひどく嫌悪した。
そんなことはわかってる、ただそれを使っちゃあ何の議論も出来ないし努力も意味がないし話が広がらない。それを言うのは最後じゃないか。と。
その言葉を努力放棄の免罪とすり替える、もしくは諦観の意味で使う人間を軽蔑していたので、「人それぞれ警察」よろしく論破行脚していたこともあった。そんなトゲトゲした中学生だったと思う。

センスと努力

音楽番組という音楽番組をチェックしていた折だ。
カバーアルバムを出した頃だろう、「いい声ですね~」と声色の美しさについて言及された徳永英明が
「そんなことありません。みなさん元々それぞれの美しい個性の声があって努力すればウンヌンカンヌン、、」と答えた瞬間に

「なんて軽薄なことを言うんだろう」と思春期の大島少年は憤慨したことを強烈に覚えている。

彼の活躍には容姿と美声に拠ったものも多かったはずだ。特にカバーアルバムなんてものはその権化じゃないかと。おいおいなに綺麗事いってやがる、歌のうまさはともかく声というものは才能だろう。
2mに「練習すればバスケに身長なんて関係ないよ!」と言われている気分だった。
選ばれた世界の人間の戯言、と。
(今でも慇懃無礼には敏感だ。お茶目に自慢されたほうが信じられる。本当のことを教えてほしい)

大好きなバスケと研音の部活に所属していたが、打ち込んでいたこれらで将来身を立てるなど考えたことが無かった。生まれつき一部の天才がなる夢なのだろうだと諦観していたし、そもそも現実で見たことが無いので選択肢すら無かったと思う。

多様性、10代で半ば厭世的にすらなっていた僕を憤慨させるには充分おつりが来る言葉だった。

陽水というパラダイムシフト

そんなリアルや確率や数字渦に生きる大島少年に青天の霹靂のイカズチを落としたのは井上陽水のあるインタビューだった。

僕の中で歌というのはあくまで“娯楽”なんだということがまずあります。で、歌を聴いて悩むこともまた娯楽。
ただ、作り手が深刻に物事を解説したり主張したり、プロパガンダを強調するんだったら、音楽じゃなくて論文に書いた方がいいんじゃないかなって。

学校の勉強には正解があり、スポーツは数字と確率だった。
だからとにかくこの文章には衝撃を受けた。表現というものも全て「言いたいこと」があってその修飾に歌があるものだと思っていたのに。娯楽。


『夜明けが明けた時』と書くと、普通の編集者はNGを出す。
それは正しいけど、だからつるんとした、引っ掛かりのない言葉ばかりになる。
意味がありそうで、無さそうな、訳のわからなさも世の中には必要なのでは」
世界は複雑で分からないんだから、曖昧でも受け止めて美しさを感じれれば

「夜明けが明けた時」「部屋のドアは金属のメタルで」
「ホテルはリバーサイド、川沿いリバーサイド」

「誰も知らない”夜明け”が”明ける”」
ん、それはつまり、、昼、?!意味が重複してわけわからんやんけ!

センス、エリート、家柄、、、世界は不平等だ。そして複雑だ。上を見たらキリがないじゃないか。
確かにささいなことに美しさを感じることがとても大事で、この世界に意味を見出すことができる。

ただ本当に、こんな事していいんだ!娯楽といってお金をもらってる人がいるのか!と本当に衝撃を受けた。

次元を超える力

夏が過ぎ~かぜあざみ~

『かぜあざみ』なんて言葉は存在しない、というのはまあ有名な話だ。
まずアザミの花が浮かび、メロディー的に〇〇アザミがいいか、とこの二文字のしっくりくる語感を探していたらなんとなく「かぜ」がよかったんだと。
しかしながらどうしてこの一文とあのピアノの前奏だけで 

田舎の穏やかな自然の中で、心地よく風に揺れるアザミ 

という美しい風景が想起させられるのだろう。 (正味【アザミ】のイメージすらも正確に沸かないんだが、、、)
緑あふれる日本の原風景。子どもが短パンで無邪気に駆けるあぜ道。トトロ序盤のとうもころしを川で洗い流す場面のような清らかさ。
「昔は自然と共同体と人情と~」なんて論理的な説明なんかしなくても音楽、いや優れた芸術には人に美を再認識させる力があって、その抽象性は多くの人の心を強く動かすことができる。

データに溢れ様々なことが数字やビッグデータで最適化される昨今に、この表現はまだどんなコンピューターにもできない。

そしてなんとアイロニカルなことは、こんな型破りで楽しみ方をしている陽水の少年時代が音楽の参考書に載っていて、アカデミックに子どもの情操教育の題材として存在していることだ。
本人のどのインタビューを見ても、あははーって呑気な受け答えをしているのに。必死な論説より響く。

多様だ。美だ。芸術の本質だと思う。学問とは好奇心からの追究だ。

アートとは人の心を傷つけるものだと宮台真司は言った。つまり違和感だ。山口周の言う正解というものがコモディティ化した情報化の現代、資本主義社会のコストパフォーマンスとかいうクダラナイ評価軸を一蹴してくれる強烈に意味のある楽曲だと思う。安宅和人はそれを妄想の時代と言った。

衝撃、感動、パラダイムシフト
それらはアングルチェンジや別次元の角度から中てられることで引き起こされることだ。
そして芸術とは、文化とは心のセーフティネットだ。

情報が溢れ、世界が大きく変化していくイマ。求められるものは陽水のような次元を超えた説得力なのかもしれない。


P,S

陽水の声はもともと特別な only one だと思う。天才。以上。

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