「関心領域」ジョナサン・グレイザー
どんな映画か(ネタバレなし)
「関心領域」は、言わずと知れた第96回のアカデミー賞で国際長編映画賞・音響賞の2部門を受賞した作品だ。
日本では、5月24日から公開された。
ちなみに、 第96回アカデミー賞の国際長編映画賞といえば、役所広司主演ビム・ベンダース監督の「PERFECT DAYS」もノミネートされていたことで、日本人の注目度は増していた。
「PERFECT DAYS」も深く余韻を残す映画体験をくれる作品だが、その感想はまた別で書くとして、その「PERFECT DAYS」を抑えて国際長編映画賞を受賞したのが本作だ。
私は、正直上記以外の予備知識はほとんどなしで、鑑賞した。
映画の感想(ネタバレあり)
この映画で起こること、それは至って普通の日常だ。
家庭の庭を子供たちが走り回り、母親は友人と自宅でお茶を交わし、父親の転勤に一喜一憂し、たまには父親の母親を自宅に招き入れる。
そんな、誰しもが「日常」として享受している日々が、映像として映し出される。
それでは、何が違うのか。
それは、これが「アウシュビッツ強制収容所の隣の」家の話ということである。
それが全てのフリになっている。
本作は、映像の故障かと思うくらい長く感じる無音の暗闇からスタートし、時折場面転換の際に重低音が鳴り響く。
ありふれた日常を描いているにも関わらず、その根底にはずっと「不気味さ」が混在している。
象徴的なのは、家庭の庭で家族団欒で過ごすシーンに、時折銃声や叫び声がBGM的に聞こえてくるのである。
そう、ここは「アウシュビッツ強制収容所の隣」なのである。
正直、「アウシュビッツ強制収容所の隣」の普通の家庭を描くという設定と、「関心領域」というタイトルを付けた時点でこの映画は名作となることが約束されていたのかもしれない。
それくらい、「アウシュビッツ強制収容所の隣」というフリが強く、全てにおいて効いているのである。
子供たちが楽しく駆けていてもそれは「アウシュビッツ強制収容所の隣」、父親の義理の母を迎えて義理の親子特有の少し距離がありながらの楽しげな会話をしていてもそれは「アウシュビッツ強制収容所の隣」、父親の転勤が決まり今の自宅を離れて別の地区に行くことに困惑している夫婦のやり取りがあってもそれは「アウシュビッツ強制収容所の隣」。
もう、この設定の時点で当たり前の日常全てが、名シーンとして成り立ってしまうのである。
完全に設定の時点で勝利している、としか思えない。
その上で、「関心領域」というタイトルも絶妙だ。
原題となった『「The Zone of Interest」とは、第二次世界大戦中、ナチス親衛隊がポーランド・オシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するために使った言葉』らしい。
それは、もしかすると、ナチスが「関心を払うべき領域」という意味だったのかもしれない。
しかし、本作においてこのタイトルは絶妙だ。
あえて言えば、アウシュビッツ強制収容所の隣に住む家族の日常が映し出される「だけの」本作に付けられたタイトル「関心領域」。
それを見た我々は、この言葉をどう捉えるだろうか。
この家族の「関心領域」と捉える人が多いのではないだろうか。
壁1枚を隔てた向こう側で銃声がし、叫び声が上がり、人の命が虫の命のように簡単に失われていく。
それでもなお、家族は穏やかに日常を過ごし、子どもは育ち、我々と同じような日々の出来事で一喜一憂する。
この家族の「関心領域」は、どこにあるのか。
非常に狭い、「壁のこちら側」にのみあるのだ。
つまり、そこにはアウシュビッツ強制収容所をどう捉えるかという善悪の問題があるのではなく、壁1枚隔てた向こう側にどんな悪があろうと「そこに関心が及ばない」という恐ろしさが存在しているのである。
これはある意味、アウシュビッツ強制収容所をドイツ人の使命として推進したナチス以上の恐ろしさがある。
なぜなら、過ちは正せる。
愚かな歴史は修正できる。
しかし、関心がないものは歴史にも残らず、正す対象にすらならない。
変わり得ないのである。
これが、悪以上に恐ろしい無関心、いや「関心領域が狭い」ことの恐怖なのである。
ここまで読んだ方はお気づきかもしれないが、この家族が我々と同じ日常を送っているということも1つの強烈なポイントだ。
本作は、アウシュビッツ強制収容所という歴史上で極めて悪と認定された事象に対して、「壁1枚」という極めて至近距離で起こる日々に焦点を当てているために、特殊な事例のように我々の目には映る。
しかし、そこで過ごす家族の日常は我々と変わらない。
いや、我々そのものなのだ。
今、戦争の恐怖は現実のものとなり、核の恐怖もいつ現実のものとなってもおかしくない。
その恐怖に対し、過去の歴史ではなく現在進行形の事象に対して、「海1つ」隔てた我々の「関心領域」はどれくらい広いのか。
これは物理的な距離だけでなく、時間的な距離においても言えるだろう。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があるが、我々は「一定の時間」が経過した過去に対して、そこにどんな恐怖があったとしても痛みがあったとしても、そこから学ぶことなくその出来事を簡単に忘れてしまう。
簡単に「関心」がなくなってしまう。
物理的な距離がある出来事に対して、また時間的な距離がある出来事に対して、自分自身の「関心領域」の狭さを痛感せざるを得ないのである。
これは、我々の物語だ。
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