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ただ新しければ創作と呼べるのか

創作と創作以外のアウトプットの違いについて考えてみる。


まず、創作をしていて感じることは、自分の感情やモチベーションがアウトプットの質に直結しているという点がひとつの特色だなあと。

会社で働いていたときとの差異として、会社では仕事のプロセスに論理性が担保されていれば、自然とアウトプットの質が高まっていったなあと思い出されます。
論理的という言葉は、「大多数が納得しやすい説明ができる」という意味だと僕は思っています。

従って、会社員的な仕事をすすめるということや、創作以外のアウトプットをするということは、自分の感情は関係なく「現状みんなが簡単に理解できることをする」ということなのかなと思ってみたりしています。

それは、上司やお客さんに頼まれたことも「簡単に理解されること」だし、言われたことに+αで少し付加価値をつけるということも、「説明をちゃんとすれば理解されること」だということ思います。

重要だなと思うのは、「+αで少し付加価値をつける」というのが、「少し」でなくなりだすと、それは創作的な仕事になるというイメージがあるということです。

この創作的な仕事というのは、いわゆるクリエイティブな仕事とか、起業家的思考というのと同じような意味を持っている感覚があります。

そして、こういった付加価値の高い、今までになかったものや普通ではないとされる仕事をする際には、みんなに理解してもらうために一生懸命説明する必要があります。

起業家は投資家や銀行や従業員に一生懸命プレゼンをします。

それと同じように、マンガ家や映画監督は自分のつくった世界の魅力を理解してもらえるように一生懸命演出という名の説明をします。


で、モチベーションの話に戻るのですが、これらの創作的な仕事というのは実行の必要条件に「自分のモチベーション」があると思います。

このあたりは自分でもまだモヤモヤしているのですが、頑張って交通整理してみます。

創作的な仕事の価値が「まだ理解されていないけど価値のあるものをみんなに届けること」とするならば、届かない確率が高いことが「リスク」で、そのリスクを許容するための「器の大きさ」がモチベーションだということでしょうかね。

既存の作品に近しくて、みんなに理解されやすいことがわかっているのであれば、伝わらない確率が低いので、結果モチベーションもそこまで必要じゃない。

逆に、草分け的存在となるような攻めた創作物をつくるときは、伝わらない確率が高いので、そのリスクを許容するための高いモチベーションが必要。


で、前提として、ここで話しているリスクというのは、具体的には「売れなくて生活ができるのか」という生活保障や「お金はあるけど失敗して時間を無駄にしたくない」という時間コストの話だと思います。

確かに「別に売れなくてもいいや」「時間が無駄になってもいいや」と思っているならば、作品が理解されなくてもどうでもいいということになるので、モチベーションが不要になるというのは納得ができます。

もしかしたら無我の境地で尖ったいい作品がつくれるというのは、こういうことなのかもしれません。


あと一つ、すごく紛らわしいのですが、「みんながまだ理解していないけど価値があるもので、かつ特にモチベーションが湧かないもの」を作る仕事の場合は、それを創作と呼ぶのか、という問い。

僕のイメージでは、それは創作とは少し違って、会社員的な「デザイン」のような仕事だけれど、通常のデザインとは発想のベクトルが逆という感覚があります。

ここでいう
デザインは誰かの要望に応えるための仕事、
創作は創作物または自分のための仕事です。

上記の「動機はないけれど理解できるように説明のつけられた全く新しいもの」というのは、「理解できるように説明がされた」時点で誰かの問題解決に使えるようなものになっているはずですが、動機がないという点が、目的ファーストのデザイン思考とは異なります。

これは「貧困をなくすためになにを作るか」と考えるのではなく、「目の前にあるシャーペンを貧困解決に使うとすればどんな方法があるか」と考えるようなプロセスとも言えます。

この偶然的な、ランダム性に身を委ねている感じが少し乱暴なように僕は思えて、こうしたモチベーションを置いてけぼりにした仕事の仕方を「創作」という言葉に入れたくないなあという感覚があります。

このへんは感性の問題なので人それぞれですね。

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