映画:「春江水暖」を観て「ドライブ・マイ・カー」を連想しました。
映画ファンは魅了されるに違いない、という広告コメントがありましたが、正にそのとおりと思いました。説明を一切排したドラマ運び。正直言って最初の内は誰が長男で次男で、ダウン症の子の父親は誰で、見合いに行くのは誰なのか等々、戸惑っていましたが、ドラマが進んで行くにつれて段々と分かってくる。それでいいのです。そしてワンシーン・ワンカットの演出の豊饒なこと! ファーストシーンの祖母の誕生会。シーンの手前、奥、右から左から参加者が現れ、焦点が変わり、それぞれの動き、やり取りが描かれ、隙がありません。長男の娘と恋人のデートのシーンも、延々と恋人が川を泳ぎ、娘と落ち合い、二人並んで歩きながら様々なことをお喋りし、二人の前や後ろを色んな人たちが擦れ違って行く、その様子をずぅーっとカメラは横に移動しながら二人を捉えていく。凄い! の一言です。
富春江という大河沿いに暮らす一家の2017年の春から2019年の春までを描いて行くのですが、辛いこと、大変なことばかり起こる中で、懸命に自分の人生を生きようとする若者たちや、彼・彼女らとのずれを嘆く親の世代等の生活のさまを、淡々と描写して行く映像には風格さえ感じます。
ただ、やはり中国映画か、と思ったのは、この映画は、この一家の出来事を富春江の川沿いがどんどん開発されていく過程で描いているのですが、こういう開発の際には必ず負の側面があるはずなのに、開発による肯定的な面しか描かれていないことです。製紙会社による環境汚染のことがチラと出てくる程度。
韓国や米国映画は社会に内在する様々な腐敗、問題を題材にして優れた作品を映画化しています。エンターテイメント作品もそういう所を描くのに躊躇がないから、観客への訴えも地に足がついています。
しかし、中国映画はもはやそのような作品は映画に出来ません。娯楽作品は、国家は正しいという勧善懲悪の話にしか出来ません。そしてそのような娯楽作品に飽き足らない作者たちは、この「春江水暖」のように、人生や家族の共通的なテーマを題材にし、その描写方法に芸術性を求めるしかないのでしょう。
ここまで思った時、あれ、これは日本映画、「ドライブ・マイ・カー」にも言えることだな、と思ったのです。
2月4日(金)の朝日新聞の夕刊に「トイレのピエタ」の松永大司監督の話が載っていて、彼は米国に映画留学していたそうなのですが、向こうで米国の友人に「なぜ日本映画を観る必要がある? 米国に無い映画が日本にあるのか?」と訊かれて答えられなかったそうです。だが、彼(女)らは韓国映画は観ているのだ、と。
日本には中国のような強権的な検閲はありません。ですが、なのに、日本映画には韓国や米国のように、社会に内在する問題を題材にした映画というものは、少なくとも全国公開レベルの作品にはほぼ皆無です。海外から日本映画界を観た時、高校生の映画ばかり、と映るでしょう。(各作品の作者の人たちを責めているのではありません。そのような企画しか出てこない状況がおかしいと思っています)
その中で久しぶりに世界を席巻している大傑作「ドライブ・マイ・カー」。これは大傑作だと思います。「偶然と想像」もですが、役者のセリフが独特です。そしてそこから一つの世界を形作ってしまう。その世界に魅了されてしまうのです。しかし、そこに描かれるのは、実社会の問題からは隔絶された、一人一人の人生についてのテーマなのです。
映画で実社会を描くことが出来ず、実社会から遊離した娯楽作品とするか、芸術的世界を構築し、その中で個人的な、或いは生に関する普遍的なテーマを描く作品とするか、に二極化してしまっている、その点で日本と中国は似ている、と感じた作品でした。
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