『GIDE 田園交響楽』それは慈愛ではなく vol.854
海外古書であり哲学にあたるのでしょうか。
アンドレ・ジッドという有名な作家の田園交響楽という本を読みました。
牧師さんが1人の盲目の少女を救い出し光を与えると言う話です。
一見聞くと美しい話のようにも感じますが、実のところただの欲望が渦巻いているそんな話だったのではないかと私は感じてしまいました。
今日はこの本を読んでの感想を書いていきます。
思想だけでは人格は完成しない
盲目の少女ジェルトリュードを牧師は身寄りがないからと言って慈悲の心から引き取ることを決意します。
まさに愛の行い。
誰でも彼でも手を差し伸べられると言うものでもありません。
もし、自分にとって何も関係のない小汚い生きているのかどうかもわからない少女がいた時、何も考えずに身元を引き受けられるでしょうか。
彼の選択は神の信仰に基づいて行われた紛れも無い選択だったと思います。
しかし、彼が家に着いてから彼の性分がはっきりと分かるのです。
彼は信仰心に基づいて行動はしますが、家族にはそこまで関わっておらず妻のアメリーとの関係はよくなく、家には乳飲児も含めてたくさんの子供がいたわけです。
つまり家庭や現実を鑑みない慈悲の心で少女を救ったわけで、その上で妻に対して「あいつは理解できていない、かわいそうに」と信仰心真っ只中の考えを出しています。
曲がりなりにもキリスト教を学んでいる私からすれば、この牧師の行動は果たして慈悲による行動だったのかと甚だ疑問を感じました。
男をダメにするものは
第1の手帳では自分の欲求を抑えて、こうであるべきという宗教思想の下で、ジェルトリュードに愛を持って接していたはずだったのに、その様子は後半に進むにつれて徐々に変わっていきました。
ただの慈悲の心が、いつの日にか恋愛感情へと変わっていってしまっていったのです。
それも妻アメリーに簡単に見抜かれてしまうほど本人は気づいていないのだけれども、態度に出てしまっているという。
後半はまさに人間の欲の世界でした。
どんなにこうあるべきだと思っていてもどこかで人間は欲望に負けてしまう。
特に男は女性、ギャンブル、酒これらに弱いのかもしれません。
そんな人間らしさを多分に感じました。
見えぬ世界、見える世界
では、ジェルトリュードは目が見えていないほうがよかったのでしょうか。
なぜ、最後は現実世界のどんなところに絶望し、自殺を図ってしまったのでしょうか。
それはおそらく、自分自身の見えていなかった思い描く世界の理想と、現実に見てきた世界とのギャップがあまりにも大きすぎて受け入れがたかったのかもしれません。
それも、その世界は変化していってそうなったのではなく、自分がそうだと思っていたものが実際には違ったという絶望があったのです。
そう考えると、盲目というのは一種の幸せといってもいいのかもしれません。
結婚や子供を作るというのもこれに似ているという話が読書会の中ではありました。
確かに。
私たちは知らないからこそ頑張れるし、無我夢中でやれる。
そういった特性も持ち合わせているのかもしれません。
逆に言うと目が開けて世界が見えた時、そこに絶望を感じた時にその人の本質が現れるのでしょう。
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