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『隔たる世界の二人』偏見と弁明と vol.597

予告を見た感じだと、ただのSF映画。

しかし、エンドロールを見てこの映画が何を伝えたかったかが真に理解できます。

この予告の画像もまさにそれを表しているような感じでしょう。

もし自分だったらと考えてしまうそんな短編映画です。

一夜をともにした女性の部屋で目覚めたグラフィックデザイナーのカーターは、愛犬の世話をするため自宅へ帰ろうとする。しかし路上で遭遇した警官メルクに所持品検査を強要され、抵抗すると地面に押さえつけられ窒息死に追いやられてしまう。意識を失った瞬間、カーターは再び女性の部屋で目を覚ますが、帰ろうとするとやはりメルクに遭遇し、今度は射殺されてしまう。自分がタイムループにはまり込んだことに気づいたカーターは、メルクに殺される運命からどうにか抜け出そうとするが……。

https://eiga.com/movie/94802/

この映画を見ての感想を書いていきます。

パラレルな視点と自分の行動

主人公のカーターは自分がタイムリープに入り込んでいることに気づき、どうにかそこから未来を変えようと画策します。

しかし、どんなに頑張っても行き着く先は同じ。

これは避けられないことなのでしょうか。

パラレルワールドの考え方にも2通りあります。

さまざまな分岐点で分かれた人生線は互いに交わることなく、最終的に違った道を進み続けるというのが一つの考え方。

もう一つは、分岐点で分かれたとしても最終的に到着する場所は同じという考え方。

今回の映画は後者の方でした。

実際にはまだパラドックスについて解明されているわけではないのですが、量子ねじれなどの考え方からすると、もしかしたら後者の方が正しいのかもしれません。

ただ、未来は自分で変えられる。

そう信じてカーターのようにチャレンジしていきたいものです。

いきすぎた偏見の最終点

最後のエンドロール、よくわからない項目が流れます。

見たところ、名前と日常生活の一部。

犬の散歩をしていた。お迎えに行っていた。ガソリンスタンドで給油していた。

、、、?

最初はこんな感じでしたが、ようやくそこで気づきました。

これは黒人差別を表現している映画なんだと。

どんなに言い訳をしても、正しくても、黒人だからこいつは悪い奴。

殺すべき存在。

という、ねじ曲がった偏見の世界から抜けられなくなってしまったカーターの話なのだと。

一方、白人警官のメルクもどこまで行っても、カーターを殺すことしか考えていません。

それは彼の過去に何かあったのかもしれません。

しかし、そんな黒人だから悪、差別しなければというそんな社会風潮を重く捉えて表現していた映画だったのです。

日常の中に潜む

この映画は黒人差別という誰もが知っている実感できている分かりやすい例を提示してくれましたが、もしかしたら私たちの日常の中にはこんな偏見が大量に詰まっているのかもしれません。

そして、それは偏見を受けている人は強く感じているのに、偏見を持っている側からすれば、なんともない生活の一部。

だから、この映画もカーターからすれば、「??」、「たまったもんじゃない」という感情なのでしょうが、メルクからすればただの日常の一部となってしまっているのでしょう。

男なんだから、女なんだからというのは最近のジェンダーの中での偏見。

それ以外にも実は潜んでいる偏見を私たちはもっと意識して生きていかなければならないのかもしれません。

それは科学の進歩ともつながっていく可能性もあるのでしょう。

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