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『花束みたいな恋をした』恋は恋で終わるのか? vol.498

恋愛映画らしい恋愛映画を見たのは久しぶりでした。

『花束みたいな恋をした』

東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った大学生の山音麦と八谷絹。好きな音楽や映画がほとんど同じだったことから、恋に落ちた麦と絹は、大学卒業後フリーターをしながら同棲をスタートさせる。日常でどんなことが起こっても、日々の現状維持を目標に2人は就職活動を続けるが……。

https://eiga.com/movie/92102/

自分自身の恋愛と重ねたり、客観的に見たり。

そんなこの映画を見ての感想を書いていきます。

仕事に対する姿勢とタイミング

この2人、職業観や恋愛観からすれ違いを起こし、徐々に雰囲気は悪くなってきます。

最終的に2人は別れてしまうのですが、なぜ別れるまでに至ってしまったのか。

そこには、それぞれの職業観が大きく影響していると思いました。

麦からしてみれば、仕事はしなければならないもの、社会人として責任が働くもの、弱音を吐いてはいけないものという意識がとても強く感じました。

しかしそれも、学生時代の麦からは出てこないようなセリフです。

一方、絹からしてみれば仕事は自分のやりたいことを実現する場所。

これもタイミングかと思うのですが、それぞれの職業観から生まれたすれ違いが大きく影響しているように感じました。

私自身、教員になって1年目や2年目であれば大きく麦に共感していたと思います。

仕事は当然我慢したり、自分を犠牲にして当たり前のもの。

だって、好きでなったしそもそも職があるのが当たり前ではない、感謝しなければと思っていたからです。

当然、そういう考え方も大事なのですが、長い目を見てみた時、自分がどのように生きていいたいのか、ありたいのかを考えた時には絹の方が一枚上手の考え方だたように感じます。

そこに遅かれ早かれ誰でも気づくのかもしれませんが、出会いが学生時代だったが故に起きてしまったすれ違いになってしまったのではないでしょうか。

コミュニケーションの量質転換

では、2人に足りなかったのはなんだったのか。

それは間違いなくコミュニケーションだと思います。

映画の中でも幾度と、絹目線、麦目線の心の声が描かれています。

それをそのままにしていいの?と言ったような。

おそらく多くの人間関係がこのような瞬間を何回も繰り返してできているとは思うのですが、この2人の意見をぶつからせるのも時には必要です。

大切と分かっていてもできないのは、どこか相手に対しての不安な点、受け入れられなかったらどうしようと言った感情であったり、そもそも話し方が分からないと言ったところにあるのでしょう。

難しい部分ではありますが、このコミュニケーションさえしっかりしていれば、2人は別れる必要もなかったのかもしれません。

恋は恋なのか?

と、そこまで思って最後に改めてタイトルをみた時、ふと感じました。

花束みたいなをした。

恋、、、。

この2人がしていたのは最後まで恋だったのかもしれません。

真に相手のためを思って貢献をしていこう、相手を幸せにしようととしていた愛だったのではなく、自分にとっての相手の存在に疑問を抱き、自分本位での相手に不満を覚えていってしまった。

まさに恋だったのではないでしょうか。

厳しい視点なのかもしれませんし、そもそも学生上がりのカップルにとってはそこの意向すらももしかしたら、途轍もないハードルの高い関門なのかもしれません。

それでも、この映画のタイトルの意味するところに全てが執着するように感じました。

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