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『プログラミング教育はいらない』 vol.232

学習指導要領でプログラミング教育が推進されるようになり、学校でも本格的な導入が求められている。

しかし、プログラミング教育について誤解をしている教員はまだ多く、その認知度にまず問題がある。

そもそも、学習指導要領の変遷を気にしない教員が多すぎて、正直なところ先生という職業にひいているくらいである。

そもそも、プログラミング教育とはプログラミングのスキルを教えることだけではない。

プログラミングのスキルを教えたところで、どんな人を育てるのかは逆に置き去りになってしまうようにも感じる。

そもそも数百万かかるプログラミングスクールに通って、卒業できるのもたったの数%、そこから、自分で仕事をとってプログラムしてイメージ合わせをしてと言った過程を踏めるようになる人は、さらに数%。

プログラミング自体が難しいということもそうですが、そもそも好きであったり、それなりの覚悟がないとなれるものでもありません。

友人にプログラマーが数名いますが、ほとんどが同じようなことを話します。

私自身も、大学在学中にプログラミングもどき(簡単なWEBページを作成したり、数学教育ツールを作ったり)をしましたが、とてもこれで食べて行こうとは思えませんでした。

プログラミング教育とは、プログラミング的思考を鍛える教育のことを指し示す。

では、プログラミング的思考とはなんなのか。

私たちはすでに毎日このプログラミング的思考を実践しているのです。

例えば、朝起きた時に時間に余裕があれば、コーヒーを飲みます。

これも立派なプログラミング的思考です。

この対比は、時間がなければコーヒーは飲みません。

です。立派なif文になっています。

1限と3限、5限の授業が進捗状況が一緒で、同じ内容をやれば大丈夫だ。

と、繰り返し作業にはループを使います。(実際には生徒が異なるので全く一緒にはできませんが、考え方は一緒です。)

これが、私がこれまで考えていたプログラミング的思考に対する価値観です。

新年早々、本のプレビューから始めます。

プログラミングはコミュニケーション能力を鍛える?

にわかには信じがたい話かもしれませんが、プログラミングがコミュニケーションの力をあげる可能性があるのです。

私自身、プログラミングというのは一人黙々とコンピューターと睨めっこをして、その1日のほとんどをブルーライトを浴びながら生活するものだと思っていました。

それが2021年にさまざまな人と出会い、プログラミングをやる方にも、もちろんフリーランスで働いている人がいて、そう言った人は集客から期限の調整、全体像の共有などをするのでコミュニケーションが必要なんだなと思ったくらいです。

プログラミングが直接的にコミュニケーション能力の向上につながるとは、この本を読むまでは考えられませんでした。

プログラミングがコミュニケーション能力向上の一躍になる所以をまとめると次のようになります。

  • プログラミングの仕事と言ってもさまざまな種類がいてプログラマ、SE、コンサルタント、自分がどの立場なのかを理解して相手に伝える必要がある。

  • PCに指示するためのプログラミング言語は様々だし、難しいとは言っても、人間が指示できるようにお誂えた言葉である

  • 単純作業はプログラミングで任せ、人間はクリエイティブになる必要がある。

  • アイデアを現実化するツールとして理解

つまり、プログラミングをするということ自体がそもそも、言語の異なる異文化とのコミュニケーションであり、それを使って表現することは、コミュニケーション能力の向上と同義であるです。

確かにその学びはどちらかというと文法的ではありますが、まさに、文の構成を考えたり、単語一つ一つの意味を調べたり、何をしようとしているのかを読み取ったりする様は、外国語学習そのものです。

学校とプログラミングの関わり方

学校でプログラミング教育が浸透しないのには、先生と生徒のプログラミングに対しての態度もありますが、それ以前に学校教育でプログラミングを成功しているのは、学校での方針が定まっているのです。

プログラミング教育を通してどんな生徒を育てたいのかがはっきりしているところは、どんなにブレても原点回帰できるので、必ず成功します。

そもそも、人生というものも全く同じなのですが、ここでは話がぶれるので飛ばします。

そこさえ定まっていれば、たとえ「ITのようなテクノロジーが〜」と声を大にして言ってしまう先生がいたとしても、安心してプログラミング教育が実施できます。

※ITのTはテクノロジーの略、写真はイメージですと言ってしまっているようなもの。

そもそもはプログラミング的思考の教育なので、それを教科の中で取り入れたり、意識して教育している場合には特に問題はないのです。

ですから、教育問題とカリキュラムを議論し尽くした上でのアンプラグドはいいのですが、結局、「あっそういえば指導要領変わっているじゃん。」と言ったような、何もできないアンプラグドは目も当てられません。

いつしかの単位未履修問題の再来というわけです。

表だった科目ではなく、指導要領の中に書かれているだけだからもっとタチが悪いかも知れません。

学校は天才を育てられません。

でも、信念や志、学校で言えば建学の精神を受け継いだ人材は育てられます。

その建学の精神、学校の育てたい生徒像にスポットライトを当てることのできている学校は一体どれほどあるのでしょうか。

教員がやりたくない、生徒も乗り気でない

そもそも、探求もプログラミングも学校現場でここまで問題視されているのは、大きな本質的な問題を無視していることにあると感じています。

おそらく、ほとんどの教員が探求もプログラミングも新しく入ってきた得体の知れない何かと捉えていることでしょう。

本来は社会の変化に合わせて必要最低限の考え方や知識として入ってきているので、社会の動きに敏感な大人であれば何も問題なく理解できるはずです。

それを教えられるかは別としてですが。

しかし、学校の先生は完全に外とシャットアウトした形骸化された化石の中で生きています。

そうでないと生きていけないほど忙しいと言っても過言ではありません。

つまり、社会の変化にすら気づけない中でいきなり正体不明の何かを生徒に教えろと言われているのです。

これが、敬遠されがちな構造の一つです。

では、教員もやってみたい、生徒もやってみたいにするにはどうすればいいのでしょうか?

まず、大前提として教員が育てるという考え方を捨てる必要があります。

いや、捨てるというよりかは一新する。

そもそも、時代は個の時代とも呼ばれており、18にも満たない子供が自分で会社を立ち上げたり、YouTuberとして収益をあげたり、プロ選手として働いていたりと、自分のスキルをどんどんと自由に伸ばせる時代になっています。

学校で右向け右の統一した兵隊を作る時代はもう完全に終わりへとわかっています。

その中で、プログラミングができるスペシャリストを育てようとすることは甚だアホらしいことなのです。

教員は教育のスペシャリストになれますが、プログラミングのスペシャリストは育てられません。

だから、ジェネラリストを目指すのです。

いくら、プログラミングがどんなにできたところで冒頭でも書いた通り、仕事をもらえなければただの趣味になります。

仕事を得るためには、自分のPRができないといけません。

そのためには、簡単でもいいので生徒のいいところを引き出せるようなカウンセリングマインドが必要です。

フリーで働くにしても、お金の設定をしなければなりませんしその際には、さまざま経費のことを考えなくてはならないので、お金の知識や税金について知っていないといけません。

どこでどんな人が困っているのか、社会的ニーズを知らないといけません。

人とのコミュニケーション能力です。

教員はスペシャリストでなくていいのです、ジェネラリストとして生徒一人ひとりのスキルの伸長を見守ることが必要なのです。

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