『破局』感情は出すものか湧くものか vol.590
第163回芥川賞受賞作品『破局』。
まさに今の時代にあった人間の描写でしょうか。
これは読む人物によって感じ方も共感の具合も変わってくるように感じます。
私は少なくとも、自分との重ね合わせをしながら読めましたが、もしかしたら全く持って理解ができないという人もいるのかもしれません。
そこに嫌悪感すら感じるのかもしれません。
すらすらと全く持って抵抗がなく読み終わったこの本。
私はどのように受け取らばよいのか、いや、そもそも受け取れていないのかもしれません。
この本を読んでの感想を書いていきます。
人として、人間として
この本を読んで、感じたのは主人公の陽介の血の通っていない感じ。
どの書評を読んでも、そんな雰囲気のコメントを読めますが、本を読んでみると改めて分かります。
その無機質感。
でも、そこに違和感を感じるのかどうかは別の話。
私としてはそれがこの表現物の中では表出して強く見えていただけだと感じました。
感情のない人間なんていません。
ここ最近の芥川賞の中では、いわゆるグレーゾーンの人物が描かれているものも多いのですが、陽介の中にはそれを感じません。
つまりいわゆる普通の人であるはずなのに、そこに感情が見られないという違和感をうまい具合に描いているのかもしれません。
結構物事を一歩引いてみるタイプの私は、意外とこの陽介に違和感を感じませんでした。
何が生となるか
ただ、この本の陽介に生きている感じがしないのは事実です。
彼に生を感じるのは、セックスの描写のみ。
唯一そこだけが人間的なにおいを感じます。
しかしそれも、どこか本能的ではない理性的なもの。
そもそも生を感じるというのはどういうことを言うのかという話になってしまうような感じもします。
何を持ってその人間に生きている部分を感じるのか。
それは人によっては感情なのかもしれませんが、私にとっては理性だとも思うのです。
ですから、この本に対して何か批評的な意見、人間的な要素を感じないと言っている人に対して疑問を呈する部分もあります。
分からないわけではありませんが。
義務と感情
陽介の中には常に「しなければならない」「するものだ」そういった制約や義務感といったものがはたらいていました。
これは誰にでもあるものなのでしょうが、陽介に関しては異様にこれが強く働いていたのでしょう。
だからこそ、彼がどんな人物なのかが見えてこない。
過去も未来も今ですらも彼という名の人間を想像できない。
これがこの本の気持ち悪さを読んでいるのかもしれません。
本来であれば登場人物がいてなり立つはずの本が、登場人物が何者なのかが分からない。
そして分からないままに終わっていく。
その解釈はこちら側に投げられている。
実に芥川賞らしい作品だなと感じました。
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