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日直日誌の役割 vol.446

学生の頃、日直日誌はありませんでしたか?

私は小学生の頃は担任の先生が一人一人と交換日記を、中学生高校生の頃は日直日誌がありました。

担任としての今も、中学校では日直日誌を、高等学校では交換日誌として1日3行、ランダムに誰かにその日の感想であったりあったことを自由に書いてもらっています。

この日直日誌、一体どうして当たり前のようにあるのでしょうか。

今日はその日直日誌について考えていきます。

日直日誌の起源は?

日直というのは、文部科学省の出している学習指導要領の特別活動の枠にも存在しています。

学級の活動を行うことで、個々の役割を理解し自分なりの役割を果たし、自己承認を果たしていくためとあります。

日直日誌を必ず書かなければいけないと言ったような文言は私の調べる限りではありませんでした。

それではなぜ日直日誌というものが生まれたのか。

私が思うに学校の形態の在り方が元々工場からきているからだと考えています。

元々は寺子屋のように、各々が学びたいものを自ら選び学んでいくというのが日本の学びのスタイルだったのにも関わらず、富国強兵やGHQの手が加わったことによる統一で、一気にトップダウンのものへと変化しました。

これがきっかけで、上へ報告するという義務的な作業が学校教育の中にも適用され、日直日誌という形が残っていったのではないでしょうか。

コミュニケーションツールとして

日直日誌は悪いものではないと私は思っています。

私は日直日誌を一つのコミュニケーションのツールと思って扱っています。

それもオープンスペースの。

日直日誌は、担任に対しての報告書類なのに、その書類は学級全員が目を通すことが可能です。

そのため、1体1のやりとりにも関わらず、いくらかかしこまった表記が必要になるのです。

そして、これが互いの仲をなんとなく仲良くするきっかけにもなるのです。

「あの人はこう思っていたんだ」とか、「あ、この人はこう感じるんだ」と言ったちょっとした感覚の違いを理解していく。

そう言ったツールとしては最高のものなのではないのかなと思います。

あとは、学級全員で一つのものを作り上げるという、合作的考え方もいいのかなと。

目的思考の日直日誌

結局のところ、日直日誌も目的思考で考える必要があるのでしょう。

隣のクラスもやっているからとか、前のクラスでもやっていたようだから。

と言った形骸化されたような意味を見出せない理由では、いくら日直日誌を続けたとしても意味がありません。

担任の中には日直日誌に返信を書かないものもいますが、正直理解できません。

では、その日誌はなんのために書かせているのでしょうか?

授業の「難しかった」だけの報告など必要ですか?

もし、そこを知りたいのであればそこを書けるような指導はしていますか?

日直日誌を持ってどんな力を身に付けさせたいのか、どんな役割をあなたのクラスでは日直日誌が請け負っているのか。

そう言ったことを考えて扱っていく必要があるのではないでしょうか?

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