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信じている思想、信じるという賢さ

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私の信じている言葉、思想

神は死んだ

ニーチェの言葉である。この言葉はそのままの意味ではなく、この世には神が決めた(予め決まっている)善悪などの価値などはなく、全ては人が人自身で決定するのだという考えである。自分はこの考えが非常に好きだ。考え方の多様性、常識というものが幻想だということを的確に表した言葉ではないか

諸行無常(万物は流転する)

全てのものに常はない、という仏教上の概念である。自分の考え、人のあり方、世界の全てがその瞬間において常に変化し、同じではないという考えは何かに固執する必要はないのであるという真理を教えてくれる。

信じるものは救われる

キリスト教(仏教などにも存在する)の概念であるが、自分としては違う解釈を行っている。キリストを信じるものが救われるというよりは、人は何かを信じることによって救われると解釈している。上記の二つの言葉は全てに真はないといった意味合いであるが、この言葉はそんな意味のない世界において、それでも人間はそこに意味を見出し、何かを信じなければ、生きていられないという考えが集約されているように思う。

やらない善よりやる偽善

2ch発祥の言葉である。この言葉には賛否があるとは思うが、個人的には非常に好きである。私は人間とは基本的に自分のために生きていると考えている。そのため、全ての善もそれは何かの見返りを求めての行動であると考えている。この言葉が、そのような観点から考えると、非常に的を射ており、正直で飾らない言葉であるのではないか。「私は偉い」と思いながら善行を行う人々よりも、「これは偽善だ」と思いながら善行を行う人々の方が私は好感が持てるのである。

宗教を信じている人は頭が良い

私は宗教を信じることができない。基本的に天邪鬼で何事に対しても皮肉じみた見方をしてしまうためである。ただ、ずっと宗教を信じている人々は頭が良いと思っている。私は、基本的に生きる意味や人生の意味はないと考えている。一方で、そう考えていながらも自分はなんのために生まれなんのために生きているのかということを自問自答することがよくある。正直、意味がない世界においてこのような人生の意味を考えるのは無意味なのだ。人は生まれ、死んでいく、それだけなのである。しかし、考える。人間の性なのか。

宗教はこのような問いに答えてくれる。なぜ生きるのか、どう生きるのか、そのような本来であれば答えがない問い、しかし、答えを探してしまう問いに対し、答えを与え、考える必要を無くしてくれるのである。

これは非常に合理的だと思う。

最も、人生に意味がないと考えながら、実質的なものなどの欲で持って人生の意味など考えずに生きる方がより合理的なことは確かである。

しかし、非合理に人生の意味を考えてしまう人々にはやはり宗教の類は合理的で頭の良い選択だと言えるのではないか。

やはり、宗教を信じれる人間はそういう意味で合理的で頭が良いのだ。

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