鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎 感想

ネタバレ全開でいきます。

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はじめに

私は所謂「因習村」「相続サスペンス」「ヒトコワホラー」をあまり見てこなかったので、その辺に関する考察は出来そうもないので、別の切り口で。私はこの作品が『「何者かになりたい(変わりたい)」モノたちを弔う話』だと思った。
この話の骨子を私なりに分析するとそういった根幹を用意すると合点がいくのだ。うーむ、どうにも結論ありきな匂いがするが、備忘録程度に書き残しておきたい。

登場人物の役割


「帰還兵からサラリーマンとなった水木がビジネスで成功するために奇跡の薬Mを探す」物語と
「幽霊族の男(通称:ゲゲ郎)が行方不明となった妻を探す」物語の二軸で進む

1.水木「何者かになりたくて、なれた」

この物語の主人公1。
役柄:帰還兵からサラリーマンとなった男
動機:ビジネスで成功するために奇跡の薬Mを探す
転機:紗代に見初められ、そして裏切る
結末:当初の目的は果たされず、最後に鬼太郎を受け入れた

水木は戦争で死にぞこない、その際の上官の言葉とともに「何者でもない」男になった。それが彼の行動原理であり「何者かになる」ために、「ビジネスで成功する」道を選んだ(選んだ?)。

有体な文言だが「戦時中にはお上に従い、国のために死ぬことが自分の存在意義である」「帰属意識が強い状態」であるが、そこから帰還してしまった彼がレゾンデートルを見つけるのがこの作品の一本の軸である。

2.ゲゲ郎「幽霊族でありつづけた」

この物語の主人公2。
役柄:幽霊族の生き残り。戦闘担当。
動機:同じく生き残りの妻を探しに村へ来る
転機:Mの正体が妻の血液であることを知る
結末:妻を救うも、満身創痍となるが、鬼太郎を遺せた

ゲゲ郎は最初から超然的存在として現れる。水木と対比すれば、幽霊族の生き残りであり同族の妻をもつ彼は帰属意識が強く、安定した存在であった。逆に言えば太古から続く種であり「変化できない」存在でもある。
その裏返しとして、人間に強く興味を示し「変化する」ことを応援しているようにも見える。

作中でも「未来を変えようとする者もいれば、それを妨げようとする者もいる」的な発言があったが、ある種の自虐を含んでいたともとれる。

3.龍賀紗代「変わりたくて、変われなかった」

この物語のヒロイン。
役柄:村を出て東京に行きたい女。
動機:血縁や能力といったレッテルだけで見られるのが嫌で、村を出たい。
転機:水木も自分をレッテルで見ていることに気づく。
結末:村の外も内も変わらないことに絶望し、暴れる。

一番の被害者であり、ねじれの根源。
水木と対照的に「何者であるか」は定まっているが、それ故の悩みを抱える。しかし、最終的にお互いの思いが交差した時には水木から「この女、俺を東京人というレッテルで見てるな」と鏡のような反応を食らっていた。この鏡写しの愛憎が私には刺さった。

4.龍賀時貞「変わらないことにこだわり続けた」

この物語の黒幕。
役柄:永遠の命を望む老人
動機:日本復興の立役者となり、地位と名誉を手放さないために孫に受肉した。
転機:地位と名誉と国に興味のない水木の存在
結末:自分の考えた最強の布陣を水木によって崩され、死亡

この作品の悪役。自らの功績を他者に受け継ぐことなく、独り占めしようとするマインドは「何者かになりたい」「変わりたい」ことを賛歌するこの作品における悪のポジションとなっていた。

一緒に見に行った友人の受け売りだが「連綿と継いだ幽霊族の、次世代の咆哮が独り占めしようとした爺を倒す対比は素晴らしい」とは端的に言いえて妙である。

総括

以上の4人のうち、対比は
ゲゲ郎⇔時貞
水木⇔紗代 であることは間違いない。

前者はさっき書いた通りで、この辺は因習村とか相続サスペンスの文脈な気がするので、友人の言葉を個人的な結論としたい。

なので後者について、私は言葉を並べてみようと思う。
前者が世代的なマクロの話であるならば、後者は個人のミクロの話であり、これが戦後の話だったとしても、ある程度は現代の我々にも身近に感じることができる。

特に水木の「何者かになりたい」というのは昨今の個人のパーソナリティ問題と結びつく。しかし、水木と我々が大きく異なる点がある。

水木は「地位や名誉、国を捨てることで自分の選択(鬼太郎を殺さない)を達成した」。いや、因果が逆である。水木は「鬼太郎を殺さないことで、地位や名誉、国を捨てるという選択をした」。するとどうだろう、我々には捨てる地位も名誉も、愛国心もない。(我々というのは少し大げさかもしれない。少なくとも僕にはない)

どちらかといえば、レッテル張りをされる紗代の方が近い。しかし、紗代は劇中で救われなかった。それどころか外の世界も同じであると絶望した。
では我々もまた救われないのか?

否。

この作品は『「何者かになりたい(変わりたい)」モノたちを弔う話』だ。
その成否を問う作品ではない。

相手をレッテルで測ることは避けようのない人間の性質である。それは水木も紗代も叶わなかった。それでも今の自分から変わりたいと願い、行動した者たちを、観測者であるゲゲ郎は賛歌する。

彼らの目的は万歳三唱達成されたとは言い難い。
紗代は愛した人に裏切られ非業の死を迎えた。
水木ですら満足な結末を迎えたとは言い難い。

では彼らへの報酬は?

それは現代パートの記者と鬼太郎、目玉のオヤジで明かされる。
語り継がれることだ。

決して望まれた結末を迎えることがなくても(作中では時弥少年の期待した未来は来なかった)、変わろうとしたモノたちは語り継がれる。

私はこの作品が非常にポジティブな作品だと感じられる。
めちゃくちゃ明るい、大成功のハッピーエンドを迎えるよりも、何者でもない私の悪あがきのような毎日が、いつか語り継がれるのかもしれないと思うと、こんなに優しい作品はないと思う。

なにより、変わらなくなったら、変わらぬ象徴である妖怪として受け入れられるかもしれないという期待が、ゲゲゲの鬼太郎にはある。

そんな後ろ向きなポジティブさを感じる作品でした。

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